Flash Memory ~あの日見た朝焼け~
それでも癖のように小さく笑みを浮かべて、お帰りなさいと言ったらドアノブを掴んだままディアッカは固まった。
「…ただい、ま…」
何処か呆然としたようにそれだけ絞り出すと、微かに眉を寄せて視線を逸らす。その様子に、小さく苦笑を零した。
「…計画、聞いたんでしょう?」
気を抜けば震えてしまいそうになる声を、必死で平静を装って。
動かない互いの距離は、そのまま今の気持ちの表れ。合わせる事のない視線は、遠い。
「明日、みんな片付くから。そうしたら、君は君の生活に戻れる、よ…」
なんにもしなくていいから、とぎこちない事務連絡だけをしてキラは自室に向かって踵を返した。持っていたペットボトルのなかで、揺れた水が微かな音を立てる。
「…キラ。」
背中に掛けられた声に、動きが止まる。はっきりと聞こえるほど大きな自分の鼓動と、フローリングの床をゆっくりと近付いて来る足音。
再会してから初めて、紡がれた名前。
「…なに?」
振り返る事もせずにそれだけ音にするのがやっと。あの時は確かに恐いと思ったけれど、今は自分でも言い表せない不思議な感情が広がって行く。
あと一歩と言う所で立ち止まったディアッカは、それでいいのか、と言った。
「納得するのか、それで。」
報復、と言うのが一番近い。憎しみの連鎖を一度は絶ち切り、誰もが望む世界を切り開いた自分が、今更そこに戻るのか。何度も繰り返し自分に言い聞かせた筈の言葉。
「…僕の所為、だから。それに、君が一番被害に遭ってるのに、そんなこと言うなんて不思議。」
言いながら、小さく笑う。
言葉を返せずにいるディアッカに、なにも告げることなく全ては終る。そこで終る筈だったのに。
「…その、悪かった、な。」
突然告げられた謝罪に、キラは目を見開いた。それでも、振り返る事はない。
「…別に…」
忘れてくれたらいい、と続けようとして、言葉に詰まった。忘れて欲しくなんかなくて、なにもかも吐きだしてしまいそうな心を必死で押し留めて、それでも。
幾つもの優しい思い出が甦ってしまって、じわりと視界が歪む。
「…気にして、ないから。」
震える声でそれだけ告げて、ちょっと待て、と言う声を無視して逃げるように歩き出す。
「…だから、待てよキラ。」
そう言って掴まれた手首を、思いきり振り払う。今ここで振り払う事が出来なければ、折角ついた決心が簡単に崩れてしまうような気がした。
「まだ、なにかあるの?」
冷たく放った言葉に、ディアッカは苛ついた様にあるさ、と言った。振り払った筈の手首を強く引かれて、バランスを崩す。手のひらから離れたペットボトルが、フローリングの床に鈍い音を立てて転がる。
ひとまわり大きな身体に強く抱き締められて、キラはただ言葉を失った。
何を言っても振り返る事のない背中は、消えてしまいそうな気がした。振り払われた手のひらがジワジワと熱を持って、止まらない。勢いで抱き寄せて、こんなに求めていたのかと痛感した。
「…離して。」
小さく聞こえた声は、泣き出しそうだった。それを拒否するように、抱き締めた腕に力を込める。まるでそうする事が当たり前のように。何処かで、この感覚を覚えている。
どのくらい、焦がれていたのだろう。
どのくらい、大切に想っていたのだろう。
答えの出ない問い掛けを繰り返す頭とは正反対に、己の両手は細い身体を離そうとはしない。
多分、これが答えなんだ。
作り笑いが悔しくて。合わせることのない視線に苛立って。開いた距離が、寂しくて。
ただ、この温もりが欲しかっただけなのだと。自分の名前すら忘れてしまっても、心の奥底に絶対に残っているだろう、強い想い。
それが、きっと。
「…き、なんだ。」
零れた言葉に、腕の中の身体が震えた。
「…今更、冗談、言わないで…ッ」
終った話だとキラは言った。けれど、納得して別れを選んだ訳じゃない。事実、こんなに求めている存在。互いを想って、選んだ道なのだろう。だから、自分はいっそ忘れてしまいたいと願ったのだろうか。だから、簡単に忘れてしまったのだろうか。その想いごと、キラの存在すらも。
「こんな時に冗談なんか、言うかよ。」
言うつもりなんか、なかった。けれど、消えてしまいそうなほど希薄な背中に、どうしても伝えたかった。
キラの存在を、これほど必要としている人間がいる、と言うことを。一人でなんとかしようとするかも知れない、と言ったアスランの言葉は恐らく正しかったのだ、と思う。あのまま部屋に戻してしまったら、二度と会う事はなかったのかも知れない。そんなことになったら、一生後悔する。
だから。
そっと、ほんの少しだけ腕の力を抜いて、耳元で小さくキラ、と名前を呼んで。ぎこちなく上げられた視線を、しっかりと捉えて。泣きそうに寄せられた眉に、微かに苦笑を零して。
「…好き、なんだ。」
はっきりと届いた言葉に、見開かれた濃紫の瞳から、一筋の涙が零れた。
卑怯だ、と思った。
今更、懸命に忘れようとしていた自分の心を、あっさりと裏切って。こんなにも簡単に入り込んで来る。
許されざる存在の、一度は手放した想い。必死で手を伸ばして掴んだ筈の想い。叶わないと解っていたから、選んだ別れ。そんな、なにもかもを飛び越えて、キラの心にするりと入り込んで来る。
あの頃のまま簡単に、けれど真摯な想い。
「…なんにも、覚えてない癖に…ッ」
卑怯者、と言う言葉は、音にならない。必死で堪えていた筈の想いは、とまらない涙と共に溢れ出す。
無意識に縋っていたシャツを掴む指に、力が入る。
頬を伝う涙を柔らかく拭う指先。ごめん、と何度も繰り返して、髪を撫でる手のひら。それは、とても大切な記憶の中の仕種と、変わらない。
この人が、好き。
結局、忘れる事なんか出来なかった。
「…キラ。」
心地良い音と共に紡がれる名前。
なんにも覚えてなくてごめん、とディアッカは続けて。
「だから…もう一度、最初から、な。」
囁きと共に寄せられた唇に、抗うことなく目を閉じる。
そして僕らは、もう一度恋をする。
小さな世界が目覚める時間。作り物の空に、菫色の朝焼けが広がっていた。
カーテン越しに微かな明かりを感じて、キラは薄く瞼を持ち上げる。絡んだ指先を解いて、隣りに眠る人を起こさないようにそっとベッドから抜け出した。
随分久し振りの行為に身体中が軋んだような悲鳴を上げている。
それでも、全てが終り、始まる日だから。
薄暗い部屋の中で手早く身支度を整えて、毛布に埋もれたままのその人にそっと近付く。
「…ごめん、なさい…」
そして、有り難う。
淡い笑みを浮かべて、貰うばかりだった口付けを落とす。
最初で、最後の。
さようなら、と小さく残して、二度と戻る事のない優しい部屋を後にする。
戦闘の後は、酷く疲れている。それはモビルスーツに乗るパイロット全てに共通で、少しばかり頑丈に出来ているコーディネイターと言えども例外ではなく。
気が付いたら、今まで追い続け、倒すべき敵として見ていた艦を守るために戦っていた。
作品名:Flash Memory ~あの日見た朝焼け~ 作家名:綾沙かへる