君の隣で、夜が明ける。11
だから今は、細い指先を握る手に力をこめて。
痛い程の静寂のなかで、祈るように呟く。
「傍に、いるから。」
たとえ、届く事がなくとも。
眠りに落ちる。冷たくて、恐い夢を見る。それが嫌で、目を覚ます。
繰り返される、それが日常。
救われる事のない悪夢の中で、それでも求めているもの。
制服と、作業着。未だに根強く発行され続ける幾つかの雑誌。幾分偏った趣味の音楽ディスク。クローゼットに僅かに置いてあった私服。個人で使っていたノート型のマシン。母親が何処からか買って来たマグカップ。
部屋の空間に対して、極僅かな私物を床に置いたダンボールに詰め込む。リネン類が撤去されて、硬いマットだけになったベッドの上に腰を下ろして、一通りの作業が終った室内を見まわした。
「…結構、寂しいもんだよな。」
基地内にあった私室は、元々造り付けの家具しかない上に、自分で持ち込んだ物で一番大きくて、音源でもあったデッキも先ほど外に運び出されて行ったあとで、そう遠くない記憶の中の、初めてここに足を踏み入れた時に近くなっている。
結局、退役する事を選んだ。
戦争はもう沢山で、誰かが目の前で死んで行くのを見るのが嫌で、傍に付いていてあげたい人がいて。
あっという間に衰弱してしまった身体は、未だにベッドから出る事も出来ずに、何日か前に降った雨に濡れた所為で高熱と戦っている。そんな状態のキラの傍を離れる事も本当は嫌だったけれど、退役願いが思ったよりも早く受理されて、正式に除隊してしまった以上、この部屋もさっさと片付けなくてはならなくて。
邸を出る時に、変わった事があれば知らせてくれと家政婦に頼み込んでは来たけれど、今だって心配でたまらなかった。黙々と作業を続けて、漸く足許の箱一つにまで整理が付いた。
幾人かの、やはり終戦を機に退役するかつての同僚達とともに部屋を片付けて、荷物を運び出す。この調子なら昼過ぎには戻れるかな、と思って腰を上げると、開け放したままのドアの向こうから誰かが声をかける。それに応えるように段ボール箱の蓋を閉めて、ざっと室内を見まわすと、一つ頷く。
ドアの向こうで待っていた業者にそれを引き渡して、クローゼットに残しておいた上着と、部屋の隅に置いてあったデイパックを持って戸口に立った。そこで、振り返る。
「…じゃあ、な。」
誰もいなくとも、ディアッカに取ってはそれまでの幼い自分に対する決別の言葉。
廊下の向こう側で、友人が睨むように立っていた。それに苦笑を返して、なんだよと呟くと、苛ついた様にイザークは持っていたものを半ば押し付ける様にしてディアッカの手に持たせる。
「…なんだ、これ?」
細長い箱が一つと、何事か書かれたメッセージカード。肩からずり落ちそうになる鞄を持ち直して、両手に持たされたものを交互に眺める。
「…餞別と、キラ宛ての見舞いだ。」
横を向いてイザークはぶっきらぼうにそれだけ呟いた。
「…どういう風の吹きまわしだよ…」
およそ、そう言った行動に出るとは思えなかった友人にそう溜息混じりに呟くと、睨むようにイザークはうるさい、とだけ言った。
「そのセリフ、そっくり返してやる。まさか本当に退役するとは思わなかったからな。」
こういう時のイザークは、照れているだけなのだと知っているから思わず笑みが零れる。
何人もの退役して行く同僚達の中で、イザークとアスランは残る事を選んだ。それぞれが、それぞれの道を選んだのだから、誰にも文句は言えない。けれど、ずっと共に肩を並べて来た戦友が、戦争が終ったからと言ってあっさり退役して行く事を許せない部分もあるのだろう。
それでも、ディアッカにとって今一番大切な事は、戦後の復興ではなく、プラントを守り続ける事でもなく、たった一人の傍にいる事で。イザークも理解しているからこそ、わざわざ口実まで作って見送りに来てくれたのだろう。そんな友人の心遣いが嬉しくもあリ、道を違えて行く事が少しだけ寂しくもある。
「…悪いな、イザーク。」
あと、頼むから。
そんな使い古された言葉など、本当は要らない。それでも、そう言って笑みを浮かべた。
「頼まれるまでもないな。元々、俺の仕事だ。」
変わらない口調でそう言って、いつもの様に自信に満ちた笑みを浮かべる友人の肩を軽く叩いて、ディアッカは歩き出す。
イザークの横を摺り抜けて、少し離れたところで背中から友人は思い出したように言った。
「…花でも添えてやれ。」
それが一緒に受け取ったカードの事だと気付くと、ディアッカは呆れたように苦笑する。
「…りょーかい。」
自分で出せよな、と呟いて、それを示すために片手をカードと共にひらひらと振った。
伝えたい言葉がある。
あの時の、言葉に。
あの時言えなかった言葉を、今すぐ君に伝えたい。
それを知っているからこそ、イザークは駄目押しするつもりでここにいた。
友人に背を向けた時に、初めてディアッカはそれまでの自分に決別する事が出来たのかも知れない。
意識がはっきりしないまま、浅い眠りを繰り返す。
雨の中で途切れた意識は、ぼんやりとした輪郭のまま幾日か過ぎて行った。漸くはっきりと目を覚ますと、何時の間にか見覚えのない部屋に移されていた。殆ど変わらない内装の部屋は、それでも今まで過ごしていた部屋とは何処かが違っていて、言い知れぬ不安が這い上がって来るような気がした。
起き上がろうとしても、上手く力が入らない。視線だけで周りの状況把握に努める。見覚えのない機械に囲まれていて、左腕には点滴の針が刺されていて、高いところで揺れる透明な液体の入ったパックに繋がっている。
栄養を貰っている、と思ったのは思考がはっきりとしていたからだ。そうでなければ、食事を拒否し続けた身体が、マトモな思考を持てる筈がない。
なおも視線を動かして行くと、半分開け放たれた窓辺で、カーテンが揺れている。その向こうに、誰かの背中が見えた。
窓の先はテラスに繋がっている事を確認して、なんとか起き上がろうとするけれど少し背中を浮かせただけで目の前がくらくらした。少しずつ身体を起こすと、湿ったタオルがぽとリと落ちて来た。額に手を当ててから、それを拾い上げる。
「…なんだろ…?」
背中も湿っている気がする。酷く喉が乾いていて、それだけの言葉を呟いたら軽く咳き込んでしまった。それが届いたのか、窓の外にいた人が振り返る。
「…キラ?」
聞き慣れた声がする。思い返せば、記憶が途切れる前にも聞いたような気がした。ゆっくりと首を巡らせると、声の持ち主は開いた窓からこちらに近付いて来た。
「…ディアッカ…」
すぐ傍で立ち止まったその人を見上げると、何処か安心したように笑みを浮かべる。そうして不意に屈むと、キラの額に大きな手をそっと張りつけた。
自分の鼓動が煩いほど跳ね上がる。それが恥ずかしくて、手のひらで塞がれた視界を更に目を閉じて塞ぐ。頭の中で鼓動が反響していて、近過ぎる距離に聞こえてしまったらどうしよう、と半ばパニックになりかけた頃、熱は下がったな、と言う呟きが聞こえた。
作品名:君の隣で、夜が明ける。11 作家名:綾沙かへる