君の隣で、夜が明ける。11
そのまま額にあった手のひらが前髪を掻き上げる動作に気付いて、キラは閉じていた瞼を薄く押し上げようとした。けれど、それよりも早く唇に触れたもの。柔らかく、確かに触れた唇の感触に、呼吸すら止まってしまった。実際にはごく僅かな間の口付けは、パニックを通り越して呆然としてしまったキラには長く感じられる。
ゆっくりと目を開けて、何度も目を瞬いた。それでも、唐突なディアッカの行動が理解出来るまで、随分時間がかかる。すぐ近くにある顔が、困ったように微かな笑い声を零したところで、キラは我に返った。途端に、自分の顔があっという間に赤く染まって行くのが解る。
「…い、ま…っ」
確かに嬉しかった筈なのに、驚きの方が遥かに勝ってしまって上手く言葉にならない。
その様子にまたディアッカは笑って、返事、と呟く。
「…返事、な。ザフト、辞めて来たから。ザフトの軍人じゃ傍にいらんねーし、正直言ってさ、自信ねーけど。でも…オレが、傍にいたいって思ったからさ。」
そう言って、ディアッカは指先でキラの胸の辺りを突付く。
「ココに、いる人に負けたくねーから。…オレなりに、けじめ付けて来たつもりだし…?」
それが軍人を辞めて来たと言う事なのかどうかは分からなかったけれど、探るように言葉を選んで紡ぐディアッカはそう言って柔らかな笑みを浮かべた。極近いところで初めてみる笑顔に、キラは見蕩れてしまう。
恐らく、キラの中にいる人、と言うのはフラガの事で。その人とディアッカとは全く別格なのだけれど、それを上手く伝える言葉が見つからない。
押し付けた言葉に返事をくれて、しかもキラの勝手な想いに応えてくれて。
また困ったように眉を寄せたディアッカは、伸ばした指先で頬を撫でる。
「…そこで、泣くなよ…」
泣いている事なんか自覚していなかった。伝えてもらった事を理解するのに精一杯で、自分の頭が考えていることなんか一つも意識していなくて。
「…いいん、ですか…?」
それで、本当に。
掠れた呟きに、ディアッカはキラの髪を撫でてそう言う事じゃないだろ、と言った。
「確認する事じゃなくてさ。オレが勝手に想ってる事なんだよ。だってそうだろ、人間なんか勝手な生き物なんだぜ?…オレが、キラの事勝手に好きになっただけだよ。」
いつかそれを悔やむ時が来ても、自分で選んで来た道なのだから。
「…だから、さ。傍にいるよ。」
暖かく響く言葉。自分には過ぎる位の、優しくて、柔らかく受けとめてくれた人の言葉。
嬉しくて泣いた事なんかなくて。沢山心の中で溢れる言葉は、一つも音にならなくて。
「…有り難う、ございます…」
ただ、頷く事しか出来ない。
「病院は嫌だっつって、ゴネたのおまえだぜ?」
その言葉に、さっぱり覚えがないと言う顔をしたキラは、しきりに記憶の中を探ろうとして唸っていた。その時の状態を知っているから、ディアッカは苦笑するしかない。
庭で抱き上げた時点で、キラの身体はおかしなほど熱かった。家政婦と交わした言葉に、ぐったりとしていたキラはとつぜん病院は嫌だと喚き始めて、仕方がないから医師を呼んだ。
なぜ頑ななまでに医療施設を拒否するのかは良く分からなかったけれど、とにかく治療に必要な物をアスランが手配して整えて、部屋も移した。
意識の無い間に入院させることも出来たけれど、キラの精神状態を考えるととても出来ない、と医師のほうで断って来た。たとえ意識が回復しても、治療が必要な状態である事に変わりは無いから、ディアッカはそのことをキラ本人に説明した途端に、本人はきょとんとした顔で『そんなこと言ったんですか』と返事をした。
「…まあ、覚えてたらすげーよ。」
そう言って、記憶の片隅に追いやられていたイザークからの預かり物を、テーブルの上に降ろす。
柔らかな色合いの、春先に咲く花たち。
季節の感覚がイマイチ蔑ろにされがちなプラントのなかで、唯一季節感を思い出させてくれるのが花屋の店先で、そこにいた若い女性店員が選んで作ってくれたものだ。
記憶を掘り起こす事を諦めて、ベッドサイドのテーブルにあったカードに視線を走らせていたキラは微かに笑った。
「…いい人ですよね、イザークさん。」
カードの中は見ていないから、内容についてディアッカには良く分からない。けれど、友人の事は良く解る。
「自慢のダチだからな。」
そう言って笑った。
熱が下がっても、体力が落ちて、栄養の摂取を点滴に頼っているキラはベッドから出る事が出来ない。診察に来る医師からも、本人が納得すれば入院を勧められていた。
摂食障害は、精神病の一種だ。本人に自覚があるとは限らず、無理な入院は却って病状の悪化を招く。だから少しずつ、ディアッカは今の状態をキラ本人に伝えた。最初は不思議そうな顔をしていたキラは、話が進むにつれて苦笑を浮かべる。
「…病気、なんですか…」
食欲は生き物の本能だ。それが無くなるということは、死に直結する。それほど、他のなにかが意識を占めていると言う事で。
「…わかんなくもないけどさ。」
戦争をしていて、前線に出ていた者ならば多かれ少なかれ異常をきたして来る。解りやすいのは不眠症に代表される睡眠障害。複雑な思考回路を持ち、様々な想いを抱える人間は、何処かが破綻していても気付かない事も多い。ディアッカと共に退役して行った兵士達も、恐らくは精神的な理由による者が多いはずだと思った。
そんな風に、壊れて行く兵士達を沢山見て来た。
だから、助けたいと思った。それが、退役する理由になった。
「…おまえ、生きたい?」
あの日から、ずっと疑問に思っていた言葉を口にする。ごく自然に紡がれた言葉に、キラは俯いた。
窓の外は良く晴れていた。開け放たれた窓から入ってくる緩やかな風に乗って、テーブルの上にある花が柔らかな芳香を広げる。沈黙が支配する空間を、自己主張するように駆け回る。
俯いたまま、キラは唇を噛み締めた。
生きていたいのか、と聞かれて、答えに窮する。
とても単純だけれど、重い問い掛け。人間は生存本能が強い生き物で、誰だって無意識の内にそう思っている筈で。けれど、自分がそうなのか、と言われると分からない。
戦争に巻き込まれる前は、多分普通の子供で居た。生きているのが当たり前で、考えた事もなかった。
戦争に巻き込まれて、死ぬのが恐くなった。急に現実味を帯びて、目の前に突き付けられた。
戦争が終って、自分の命と罪の重さに耐えられなくなった。消えてしまおうと思った。
それを、たった今生きていたいのかと訊いた人が引き戻してくれたから、ここにいる事が出来るのに。
それなのに、今の自分は本当に生きる意思があるのかどうか分からない。と言うよりも、生きていてもいいのかどうかの自信がない。誰かに認めてもらわなければ、自分が本当にそこにいるのかどうかも分からなくなっていたキラにとって、「生きている」のか「生かされている」のかの境界線は酷く曖昧だった。
「…僕に出来ることって、なんでしょうね。」
呟くと、唇が奇妙な形に歪んだ。
作品名:君の隣で、夜が明ける。11 作家名:綾沙かへる