誘蛾灯
恐ろしい言葉を平気で放ちながら首を傾げる動作は、何処かあどけない印象さえ受ける。
「…何、言ってんだ…?」
確かに、銃は突きつけたままで。それでも、出会い頭に相手を確認することもせず、いきなり撃ち殺すような真似は出来ないし、したくない。
ディアッカの動揺を見て取ったのか、少年は視線をゆっくりと上げて一点で留める。そうして、小さくザフトの人、と呟いた。
「…丁度いい。僕たちを追って来た人でしょう?」
確かに笑みを浮かべたままだと言うのに、その言葉はどこか悲しそうに聞こえた。
コートの合わせから見える真紅の制服と、襟章。それを見てそう言ったのだろうと納得が行く。問題はその先の言葉。
「…追って来た…って、おまえ、あの艦の…」
それには答えずに、少年は微笑った。
「…簡単でしょう?ここで、引き鉄を引くだけ。」
中途半端に持っていた銃を、その手ごと引き寄せて、自分の胸に押しつける。白い指先が、月明かりに鈍く光る銃口には酷くそぐわない。
「…ほら、簡単。どうしたの?軍人なのに、人を殺した事がないの?…それとも、」
恐いの?
妖艶とすら思える笑みを浮かべて、少年は言った。その貼りつけたような笑みの裏側が、少しだけ見えたような気がした。
触れた指先は暖かい。今までこの手は誰かの命を奪って来た。それは、機械を通した酷く事務的な感覚で。撃墜表示、敵味方の識別信号。それらはただのデータで。その数字が、直接自分の奪った命なのだと認識してはいなかった。
触れた指先から伝わる熱は、確かに自分と同じ、生き物の情報。
そうして、その指先は、微かに震えていた。
「…死にたいのか?」
静かに問い掛けると、少年は固まった。少しだけ顔を歪めて、もう嫌だから、と呟く。
「たくさん…辛い事があった…から。もう、誰も殺したくないのに…戦いたく、ないのに。でも、アレは僕しか動かせない。だから、僕がいなくなるしか…ない。」
アレは僕しか動かせない。
引っ掛かる言葉。別に、この少年の言葉を聴く必要なんてなかった。地球軍の兵士である、その事実だけで引き鉄を引く理由になる。ただ、もしかしたら。
「…アレ、って…おまえが、パイロットなのか…?」
ストライク、と呼ばれる機体。ヘリオポリスで唯一手が出せなかった機体。追う度に、その圧倒的な力の差を見せて遠ざかる、憎らしいと同時に羨ましくさえある機体の、パイロットだと言うのか。目の前に立つ線の細い少年と、そのパイロットはとても結びつかない。それが、ナチュラルによるものだとも。その疑問が首をもたげた時、微かな笑い声が聞こえた。
「…信じられない?」
少年はあっさりとそれを認めた。そうして、自嘲するように視線を逸らして、最後の言葉を呟く。
「…僕は、コーディネイター、だから。」
面白い、とすら思った。
目の前に立つ人は、あの4機の中のどれかのパイロットなのだろうと思った。そうでなければ、あの機体に反応する筈がない。それが可笑しくて、何時の間にか声を上げて笑っていた。
突き付けられた事実に呆然としたままの手から、銃を抜きとって。
「…ねえ、だから、もう終りにしたいんだ。これ…で、僕が引き鉄を引けば、終るよね?」
そう言って、銃口をこめかみに押し突けた。手が震えるのは仕方がない。キラだって、死にたくないから今まであの機体を操って来た。たくさんの人を殺して来た。それでも、それ以上に自分が許せなくて。
だから、どんなに恐くても、震える指先で引き鉄を引く事を選ぶ。
「止せッ!」
鋭い声と共に襲ったのは、突き飛ばされるような衝撃。柔らかな砂の上でも、背中を打ち付ければ一瞬呼吸が詰まる。
砂の上に押しつけられた手首から、冷たいそれは摺り抜けて行く。
視界は柔らかな金色の光で一杯になっていた。それがさっきまで目の前に立っていた人の髪だと認識するのに、少し時間がかかった。強く掴まれた手首が痛くて、微かに顔を顰めた。それが、まだ自分が生きている事を認識させる。
「…痛い…」
呟くとそれが届いたのか、その人はゆっくりと身を起こした。今までも見上げていたけれど、押し倒された形になっているからどうしても見上げざるを得ない。鼓動が早くて、自分で思っていたよりも緊張していた事が分かった。自分であれだけの事を言いながら、今更身体が震えている事に気付いて、急に恥ずかしくなって視線を逸らす。
「…なんで、邪魔するの。」
相手の立場を考えれば、とても不思議に思えた。最初に、銃を向けたのは相手のほうだと言うのに。
「…さァ、な。」
それを止めた本人も、少し不思議そうな顔をして呟いた。
「…けど、おまえ…地球軍にいるけど、コーディネイターだろ。」
それが理由だとしたら面白過ぎる。ただそれだけの理由で、キラが引き鉄を引く事を止めたのだとすれば。
「…でも、敵、だよ。」
それが戦争ではなかったのか。
この人は、優しい人なのだと思った。それは、卑怯な優しさだ。少なくとも、キラにとっては。
「…そうだけど。けど、知っちまったら、ダメだろ。それに、おまえ…」
言い澱んで、視線を外した。
キラはそれが可笑しくて笑った。けれど、見開かれた瞳からは涙が零れた。キラが良く知る人を、大切な親友を、殺そうとして銃を向けていると言うのに。それなのに、ほんの数分前に、僅かな会話を交わしただけの自分を、知ってしまったから殺せないと言う。
その心が、確かに嬉しかったのだと思った。
引き返せないかも知れない、と思った。それでも、その瞳に囚われてしまったのだと。
何処か諦めたように笑みを浮かべて、涙を零す。
その姿は、必死で助けを求めているように見える。それは、抗い難い誘惑のようで。
手首を掴んでいた指を解いて、頬を伝う雫を拭う。その動作に、驚いたように目を見開いた。どうして、と微かに動いた唇に、指先を滑らせて。
「…今だけ、でもいいか?」
この先に足を踏み入れてしまえば戻れない事は分かっていた。戻れないと分かっているからこそなお、それは強くディアッカを引き寄せる。
指先から伝わる、乾いた唇の感触。強張っていた身体から、ゆっくりと力が抜けていく。
ただ、ほんの僅かな時間忘れる事を。それが、現実から目を逸らして、逃げているだけなのだと分かっていても。
それでも良ければ、と溜息と共に零れた言葉に、腕の下にいた少年はゆっくりと瞳を瞬いて。
「…キラ。」
名前を呼んで、と呟いた。それが、どういう意味を持つのかはディアッカには分からない。それでも、それを受け入れるように軽く頷くと、ゆっくりとキラは目を閉じる。
その、まるで眠りに落ちるようにあどけない表情。吸い寄せられるように、口付ける。
決めた、と小さな呟きが聞こえて視線を動かした。その先で、キラはゆっくりと身体を起こす。
「…何が。」
何気なく返すと、キラはふわりと笑みを浮かべた。それが、潤んだ瞳と相俟って、背筋が震えるほどの妖艶さを醸し出す。
「…あなたに、あげるよ。僕の命。」