一片の氷心
それから少しして馬超は諸葛亮に呼ばれ、彼の幕舎へと向かった。
今回の被害や今後の兵士達の配置について話し合うが、最後に諸葛亮は重い口を開いた。
「それから、馬謖のことですが……」
「……丞相……」
弱々しい声が幕舎に入り込んだ。
「姜維っ?」
幕舎にいた全員が入り口を見つめた。
「貴方はまだ寝ていなくてはいけませんよ」
師父の言葉を姜維は黙ったまま流し、真ん中までゆっくりと歩み膝をつく。
それは力尽きて思わず膝をついたようにも見えたが、彼は頭を下げたまま言葉を発した。
「丞相にお願いが御座います……。どうか、どうか……。馬謖殿に寛大なるご処置を」
姜維が入って来た時点で、何を言おうとしているのか諸葛亮には分かっていた。
項垂れるように跪く姜維を、悲しそうな目で見つめていた諸葛亮が耐えかねて口を開く前に、難しい表情を浮かべた馬超が姜維の前に膝をついた。
「さっきも言ったはずだ、姜維。お前と馬謖は天と地ほどに違う。例えお前と馬謖が同じ気持ちを持っていたとしても、お前は山頂へ行かない道を選んだ。だからこの街亭での戦いに勝てた。お前がいなかったら、街亭を落とすことは出来なかった。お前の知と勇を賞し、丞相の言葉を守らず味方を一時的とはいえ危機に陥れてしまった馬謖には責任を取らせて処罰を与えなければ、兵士達に示しがつかん」
諸葛亮も馬超と同じようにして、姜維の前に膝をついた。
その行動に姜維は困惑して首を横に振る。
丞相たる諸葛亮が簡単に膝をつくべきではないのだ。
しかし、諸葛亮は笑みを湛え、愛弟子を労わる。
「馬将軍の言葉通りです。そんな貴方だから、私は全てを託そうと思ったのです」
「……しかし、馬謖殿の逆落としがなければ……」
その言葉に浮かんでいた笑みは消え、一軍師という厳しい顔に変わった。
「それは貴方の戦略がまず活きたからこそです。貴方の戦略に将軍達の勇が応え、やっと逆落としが出来た。むしろ真っ先に逆落としをしようとしたが為に、司馬懿にしてやられたのです。私は、出陣する前の貴方方に『山頂に陣取るな』と言いましたね。司馬懿ならば、その程度の策など簡単に見破ります。しかし、馬謖はそれを破った。ここで馬謖を許したら軍内だけでなく他国からも侮られるでしょう。だからこそ、規律を乱す訳にはいかないのですよ、姜維」
諭されるように言われ、姜維に返す言葉がなかった。
「……兵士達は勝ったにも拘らず、何処か落ち着かない。それはこの戦いがいかに苦いものだったか、わかっているからです。そしてその原因が何処にあるのか、既に聞き及んでいるはずです」
確かに勝った高揚感は蜀陣内にある。
だが、何処かぎこちないのは、本陣のとある幕舎を気にしているからだ。
「それらを鎮める為にも、ここは厳しい判断をしなければなりません」
「……しかしっ」
尚も言い寄ろうとする姜維を止めたのは馬超だった。
「簡単に逆上してお前に手をかけたこと自体、厳しい処罰の対象だ」
諸葛亮は初めて聞く内容に目を見開いた。
「……本当なのですか?」
少し眉を寄せた馬超は諸葛亮の方に向き、しっかりと頷いた。
「ああ。何せ俺はその現場を見た人間なんでな」
何を言っても弁明が出来そうにない。
自分が責められている訳ではないのに、責められているように感じる。
がくりと姜維は項垂れた。
馬超は姜維の顔を見てきつく眉を寄せた。
「顔色が悪い。戻れ、姜維。今のお前のやるべきことはちゃんと休養をして、元の身体に戻すことだ。そうしなければ、ただでさえ忙しい諸葛丞相がもっと大変なことになる」
諸葛亮の忙しさを間近で見てきているだけに、姜維は何も言い返せず、深々とゆっくり一礼した。
そして姜維は諸葛亮の親衛隊達に支えられ、幕舎を出て行った。
張っていた空気を破るように、諸葛亮は大きく息を吐いた。
「馬将軍……」
馬超は無言で先を促す。
「……私は間違っていたのでしょうか」
「丞相……」
まさか諸葛亮が弱気な言葉を零すとは思わず、馬超はまじまじと諸葛亮を見つめた。
しかしそんな視線も、諸葛亮は反応することなくただ受け止めている。
「間違えたというならば、どこで間違えてしまったのか」
持っていた羽扇で口元を覆い、目を閉じた。
過去を邂逅するかのように。
「馬謖を丞相府に入れたことですか? 雑音に耳を塞いだことですか? ……姜維を、裏切り者という汚名をつけさせてまでこの国に引き入れたことですか? この戦いに二人を出したことでしょうか?」
黙ったまま見つめる馬超の前で諸葛亮は自嘲する。
「すみません、独り言です」
「俺は全て運命だと思うが」
諸葛亮は笑みを消した。
「…………」
「馬謖がいることも姜維が来たことも、今日の為の運命だと」
羽扇を下ろし、ゆっくりと頭を垂れる。
「ありがとうございます、馬将軍」
「いや、偉そうなことを申し、失礼した」
「姜維の……そばにいてやって下さい」
また何処かに行かれると治るものも治らなくなる。
そう告げる諸葛亮に、馬超は小さく笑んだ。
「ああ……」
姜維と接する時間は少なかったが、それだけでも姜維の行動が容易に想像できた。
微かな苦笑いを浮かべた馬超が背中を向けると、その背中に向けて諸葛亮が呼びかけた。
「馬超殿」
黙ったまま振り返ると、諸葛亮は深々と頭を下げる。
「姜維を、よろしくお願いします」
諸葛亮は『丞相』という立場からではなく、個人的に頭を下げたのだ。
その証拠が馬超を役付けで呼ばなかったことでわかる。
元より姜維に興味を持った馬超にしてみれば、言われるまでもなかった。
「ああ、わかった」
馬超も軽く頭を下げ、諸葛亮の幕舎を後にした。
姜維の幕舎に入ると、今度は大人しく榻牀の上で横になっていた。
何も言わないまま椅子に腰掛けると、姜維は閉じていた目を開き、顔を馬超に向けた。
「すまない、起こしたか?」
「いえ、起きていたので構いません」
横になったことで顔色も少しよくなり、声にも張りが戻って来たようだ。
「馬将軍……」
またか、とやや呆れながらも、馬超は先手を打った。
「何だ? 馬謖のことはもう聞かないぞ」
しかし姜維は緩く首を振った。
「いえ……。馬謖殿ではなく、王平殿のことです」
予想もしていなかった名前に、馬超は驚いた。
「王平? 王平がどうした?」
今、彼は指揮を取れなくなった馬謖の代わりとして戦後処理をしていて忙しいはずだ。
「この戦い、王平殿の果敢な働きがなければ、被害は大きかったかと思います。私などよりも王平殿に……」
賞賛すべきは自分ではなく、自分を信じ支え、危険なところへ飛び込んでいった王平にこそ与えられるべきものである。
姜維は必死に訴えた。
「王平殿は、私の策も私自身も信じて下さった。私も王平殿の言葉にとても励まされました」
交わした約束に『生きて会おう』という思いが強く込められていた。
それがどれほど心強いものだったか。
「王平のことは諸葛丞相の耳にも入っているだろうが、俺からも言っておく」
「ありがとうございます」
馬超の言葉があれば、ほぼ間違いなく大きく賞されるだろう。