一片の氷心
馬謖は呆然と座っていた。
頭に響くのは尊敬する師の声。
本陣で苦い表情を僅かに浮かべていた諸葛亮から与えられた言葉はただ一言。
「幕舎にて謹慎を命じる」
そんな言葉を聞きたかったのではない。
「よくやった」と。
「流石は馬謖だ」と。
褒められたかった。
だから山頂に布陣して、逆落としをかけ魏軍を完膚なきまでに壊滅させる予定だった。
しかし、あの姜維が。
降将の新参者が自分の危急の難を利用したのだ。
そして、勝利を収めた蜀軍全体が、そんな姜維を褒め讃えている。
『姜軍師』などと呼んでいる。
(奴がいなければ……。奴がいなければっ!)
その時、微かな音をたてて幕が開いた。
入り口には一番会いたくもなかった人間が立っていた。
「馬謖殿……」
「何しに来た」
姿を見るだけで腹立たしくなってくるのを感じ、馬謖は目を逸らした。
「ご無事で……何よりでした」
声が弱々しいことが、余計に馬謖の神経を逆撫でさせる。
皮肉な笑いを浮かべ、馬謖はゆっくりと姜維を見た。
哀れんだ目で馬謖を見ている。
その目を見た瞬間、馬謖の中で何かが切れた。
「どういうつもりだ? お前は私をバカにしに来たのか? 『それ見たことか!』と」
「そんなつもりで来たのではありません!」
思わず出した大声に、姜維は立ちくらみを起こす。
馬謖は勢いよく立ち上がり、睨んだまま姜維に近づいた。
そして立ちくらみで揺らいだ姜維の身体を近くの机に突き飛ばし、その上に圧し掛かった。
「お前のせいだ! お前さえいなければ、私は丞相の唯一の弟子だったのだ!」
「っ!」
「お前さえいなければ!」
馬謖の両手が姜維の白い首に廻され、物凄い力で締め付け始めた。
「ぐっ……ぅ……」
見ている世界が段々と霞み、白く濁っていく。
目の前にある馬謖の姿すらも見えなくなっていた。
姜維は息が吸い込めない苦しさを、馬謖の腕を掴むことで訴える。
「姜維!」
幕舎の幕を勢いよく上げた馬超の目に飛び込んで来たものは、机に乗り上げ姜維の首を締めていた馬謖の姿だった。
その光景に、一瞬にして頭に血が上る。
「貴様っ!」
馬超は素早く馬謖を突き飛ばすと、ぐったりとする姜維を抱き上げた。
突然締められていた首が解放され、反射的に吸い込んだ空気が一気に肺の中に入り、姜維は激しく咳き込んだ。
「しっかりしろ、姜維!」
姜維は馬超の戎衣を握る。
それは、自分は大丈夫だと馬超に伝わった。
突き飛ばされたまま地面に項垂れる馬謖に、馬超は冷たく一瞥する。
「貴様は『諸葛丞相の弟子』という位置に遠く及ばん。同じ師弟だと言うならば、姜維の方が遥かに優れている」
怒りを押さえ込んだ馬超の言葉に、馬謖の身体が不自然に震えた。
「……姜維は諸葛丞相が認めた唯一の弟子だ、馬謖」
呼吸が落ち着いた姜維を抱き上げたまま、馬謖の幕舎を後にした。
意識が朦朧としかけている姜維の身体に伝わる荒々しい振動は、馬超の怒りの表れでもあった。
その揺れを感じながら、姜維は何も言葉を発することが出来ず黙ったままだった。
馬超と抱き上げられている姜維の姿を見た親衛隊達が幕舎の幕を上げて、中に入った馬超は姜維の身体を榻牀に横たえた。
「馬……将軍……」
掛け布を被せ、備えられていた椅子に腰掛ける。
「お前はどこまでバカでお人好しなのだ」
姜維はゆっくりと視線を逸らす。
「……」
「あんな奴の為に、命を落とす気か!」
ぴりぴりと馬超の声が姜維の神経に突き刺さる。
馬超の収まらない怒りが、よくわかった。
しかし、それと同時に今自失呆然としているだろう馬謖を思うと、悲しさが先に込み上げて来た。
「……もし、逆ならば……。私は馬謖殿と……同じことを……していたでしょう」
「逆……? 諸葛丞相と出会った順番、か?」
先ほどまでの怒りはどこへ消えたのかと思うほど、それは優しい声色だった。
姜維が小さく頷くのを見て、馬超は首を振る。
「いや、お前なら確実に丞相の言葉を守ったさ」
不安そうに見ている姜維の目が、疑問に揺らぐ。
その目からの問いに馬超は答えた。
「その証拠がこの戦いだ」
しかし、姜維は納得した様子も見せず、目を閉じる。
少しだけ涙が睫毛に乗った。
「私は、馬謖殿の気持ちが分かるのです。逆落としは効果的な作戦ですから……」
丞相に認めてもらいたい。
自分が一番であるということを。
突然やって来た自身の存在が、知らずと馬謖を追い詰めてしまったのだ。
そしてずっと彼を苦手だと思っていたのも、馬謖の姿はまるで自分の映し鏡を見ている気分に陥るからだった。
馬超にそう零すと、大きな手が姜維の頭を撫でた。
「それでもお前は馬謖と共に行かなかった。そんなお前だから諸葛丞相は自らの手でお前を罠にかけ、国と仲間達を裏切らせてまで手に入れたんだ」
それほどまでに怖い方だがな。
小さく笑う馬超につられるようにして姜維も少しだけ笑った。
戦いが終わり、ゆっくりとお互いが言葉を交わしたのも、こうしていろんなお互いの表情を見るのも初めてのことだった。
もっと早く姜維と話がしたかった。
馬超は素直にそう感じていた。
まだ何処か納得していない姜維を見て、馬超は目を細める。
そしてゆっくりと手を伸ばす。
「お前はよくやった」
馬超の手が姜維の頭を撫でる。
幼子が母親にされるように。
それは温かく、揺れる姜維の心をきつく締め付けた。
「……っ……ふ……」
姜維は掛け布を顔いっぱいまで被り、零れる涙をそこに湿らせていった。
何よりも、嬉しい言葉だった。