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一片の氷心

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 主な部隊の最後に帰還した諸葛亮は、劉備に今回の街亭での戦いについて報告をした。
 淡々と述べ報告を一通り終えたところで、劉備は諸葛亮に共に来るように告げ、建物の外に向かった。
 二人の視線の少し離れた先に、鍛錬をする二人の青年の姿があった。
「殿」
 劉備の背後から諸葛亮の弱々しい声が届いた。
「殿のお言葉に背きました。私に降格の罰を与えて下さいませ」
 深々と頭を下げる軍師に劉備は静かに語る。
「諸葛亮よ。全ては結果だ。街亭は我が蜀の土地となった。それが全てだ」
 劉備はかつて、諸葛亮にあることを告げていた。
『馬謖を重用してはならぬ』と。
 ただ静かに告げる劉備の言葉の真意を掴みかねていた諸葛亮は、街亭の戦いにおいて馬謖を総大将にしたことで、その言葉に背いた形となった。
 結果は、劉備の言う通りだった。
 それを恥いて、諸葛亮は罰を求めた。
 馬謖一人に責任を負わせることは、やはり良心が咎めるのだろう。
 結果的に彼を追い詰めてしまったのは、命じた自分なのだから。
 そんな諸葛亮を背後に感じながら、劉備は静かに諭す。
「誰にでも間違いはある。だが、それを経験とし次に繋げることが最も大事だと私は思う」
 それが負け続けても這い上がってきた蜀という国なのだ。
「いい勉強になったであろう」
 諸葛亮は頭を下げる。
「……はい。私もまだまだです。しかも……弟子に救われ、それを教わりました」
 二人の視線がある青年に向けられる。
「出藍の弟子か」
 劉備が満足そうに笑いながら告げると、諸葛亮は持っていた羽扇を口元に寄せ、軽く頭を下げた。
「まさしく」
 誉れ高い出藍の弟子は、五虎大将の一人と以前のように鍛錬をしていた。
 上から見ていた主君と軍師が再び室へと去った頃、鍛錬をしていた二人の元に馬超がやって来た。
「よぉ。おはようさん」
 鍛錬の手を止め、二人は笑顔を向けた。
「おはようございます、孟起殿」
「おはよう、孟起」
 馬超は街亭での戦いの後、成都に戻っていた。
 次に起こるだろう戦いの為に呼び戻された形となる。
 一方、負傷していた姜維は真っ先に成都に戻され、丞相府に行くこともせず館にて治療に専念し、二十日ほどして趙雲との鍛錬が出来るまでに回復していた。
「伯約。身体を動かして大丈夫なのか?」
 馬超とこの場で顔を合わせるのは初めてである。
 訊ねた馬超に、姜維は満面の笑みを浮かべた。
「はい! 軍医殿からも丞相からもお墨付きを頂きました。いろいろとご心配をおかけしました」
 身体を動かせることが、余程嬉しいらしい。
 聞いていた趙雲と共に顔を見合わせ、自然と笑みを浮かべた。
 例え街亭での戦い以降『軍師』と呼ばれようとも、彼はやはり武人なのだ。
「あ、あの! お二人に……お願いが」
「?」
「何だ?」
 姜維の目は何か輝いているような気がするが、態度は少し落ち着きがない。
 しかし、二人の視線とぶつかると、姜維は笑みを見せる。
「お二方が合わせる槍さばきを、見せては頂けないでしょうか?」
 五虎大将と呼ばれる二人揃っての打ち合いはなかなか見られるものではない。
 姜維はどうしても見たくて、少しだけ親交を持った今ならばと願い出たのだ。
「あ、そうか。こうしてここで三人顔を合わせるのは初めてだな」
 姜維の目は期待で輝いていた。
「是非、お願いします!」
 本当に懇願して見せる姜維の表情を見てしまっては、断れないことを自覚している馬超だ。
 すっかり姜維に弱くなったようである。
「では、伯約に勝つことができなかった子龍の槍さばきがどれほど成長したか、直々に俺が見てやろう」
「……おい」
 馬超の言葉に、趙雲の表情から笑みが消えてきつく眉が寄せられ、不穏な言葉を聞いた姜維はオロオロとする。
「違います、孟起殿! 私は子龍殿に勝てたことはありません!」
 敵として槍をつき合わせた天水での戦いでも、一騎撃ちで勝った訳ではない。
 馬超の言葉を訂正しようとしている姜維の額を軽く爪弾いた。
「俺もお前の腕を認めてる。子龍の後はお前とやらせてくれよ」
「え、ええっ?」
「そんな体力が残ると思っているのか?」
 自信ありげに笑みを見せる馬超の顔を、趙雲はきつく睨む。
 その間で不安げにオロオロとする姜維。
 一体、天水での戦いや先の街亭での戦いで見せた武者ぶりはどこへいったのか。
 全く想像できない姿である。
「……そ、そんな……。あの『錦馬超』に勝てるはずないじゃないか……」
 そんな姜維の嘆きをよそに、既に二人の男は嬉々と槍を交えていた。
「随分と可愛がってるじゃないか」
 趙雲の槍を受け止めつつ、馬超は珍しく不敵に微笑んだ。
「まぁな。俺は気に入っている」
 馬超の『気に入る』ということがどういうことなのかわかった趙雲は「姜維が気の毒だ」と呟き、「何だとぉっ」と叫びながら猛然と振り下ろされた馬超の槍を苦笑いを浮かべて受け止めたのだった。


 姜維が館で治療している間に、馬謖は丞相府を去り南の雲南へと向かったという。
 帰還後、馬謖は県令に命じられたのだ。
 所謂、街亭での戦いにおける降格処分である。
 結局姜維はあれ以来馬謖と語ることがないまま、別れてしまった。
 これでよかったのか。
 選択が他にあったのではないか。
 姜維は自分の執務の室で、筆を止め考え込んでいた。
 すると微かな音を立てて戸が開き、馬超が中へと入る。
 ふと見せた姜維の表情は暗い。
「伯約、どうした?」
 見せた姜維の表情から何を思い悩んでいるのか悟った馬超は、深い溜息を洩らした。
「またあいつのことか」
 姜維を悩ませているのは、かつて同じ丞相府にいた馬謖のこと。
「あれは馬謖から言い出したものだ」
「え……?」
 顔を上げて馬超を見ると、彼は真剣な表情をしていた。
「それが殿と諸葛丞相のせめてもの配慮だ」
「…………」
 本来ならば、もっと厳しい処分になるところだったが、何より街亭は奪い取り、本来の目的を果たしていることから、馬謖に対する処分は軽くなったのだ。
 しかし、今まで中央で働いていた人間が、いきなり一県の長まで降格となるのは、厳しい処分と言えた。
「最後にあいつはこう言った」
 馬謖は、正面に座る主君と隣に立つ軍師、並び立つ諸将の前ではっきりと宣言した。

「二度と中央に戻りません」

「……あいつが自分で決めたことを、お前が悩んでどうする。それは筋違いというもので、処分を受けた馬謖に対して失礼だろう」
 馬謖自身、既に覚悟を決めている。
 それを姜維が悩むのはおかしい。
 馬謖は己の意思で蜀に残り蜀のために働き、蜀の地で生きていく。
 彼自身の覚悟を、姜維は静かに受け止めた。
「そうですね」
「あいつはあいつなりにこの蜀の為に戦っている。お前はお前らしく戦うことが一番じゃないのか?」
「はい」
 姜維は大きく頷く。
「じゃあ、二度と口にするな」
「はい」
「いちいち付き合う俺が面倒だからな」
 確かに先の戦いで馬超にかなり迷惑をかけてしまったのは事実だ。
 姜維は萎縮し、頭を下げる。
「……申し訳……」
「それもなしだ」
 馬超の手が姜維の頭を上げさせた。
作品名:一片の氷心 作家名:川原悠貴