一片の氷心
「麓は確保したばかり。大丈夫でしょうか」
声をかける軍団長に姜維はしっかりと頷いた。
「魏延殿なら大丈夫だ。我々は街道へ向かう。急ぐのだ!」
姜維は手綱を強く握る。
馬将軍、どうかご無事で。
馬超は槍につく血を振って払う。
「キリがないな」
後ろにいた星彩は軽く頷いた。
「……はい」
見れば、星彩は肩で息をしている。
やはり女の身では少しきつい戦いだ。
だが、ここで後ろに下がらせる訳にはいかない。
「それだけ敵も必死だっていうことだ」
星彩が頷くのを見て、馬超は改めて愛槍を握り直した。
「事態はいい方向に向かっているから、敵は抵抗を強める。耐えよ! 時機に攻勢に転じる時が来るぞ!」
兵士達から喊声が上がる。
疲労の色は濃い。
しかし、馬超の言う通りだった。
苦戦しているとはいえ、確実に馬超軍と星彩軍は敵を圧して、前進している。
戦い始めた戦場は遥か後方だ。
後少し大きな流れが来れば、一気に制圧が出来る。
だが、突如脇から喊声が上がった。
「敵かっ?」
兵士が一人、馬超の元へと走り込んで来た。
「敵なのか?」
「い、いえ! 『姜』の旗が! 姜軍師の旗印です!」
「おおっ」
「姜軍師だっ!」
周りの兵士達が歓喜の声を上げる。
「あいつが……来たのか」
そこで馬超はあることに気がつき驚いた。
兵士達が口々に姜維のことを『姜軍師』と呼んでいたのだ。
姜維に参軍の任はない。
しかし、今回の戦略をた立てたのは、紛れもなく姜維である。
それを兵士達は知り、姜維を『軍師』と呼ぶのだ。
絶大の信頼を込めて。
馬超が初めて姜維という青年の名前を知ったのは、同じ五虎大将の一人で親友である趙雲からの書簡だった。
天水での戦いに勝ち、彼の地を手に入れたこと。
しかし、その初戦で諸葛亮の策を見破り、しかも一騎撃ちを挑まれ、勝つことができなかった青年がいたこと。
その青年を諸葛亮が自分の後継者にと睨み、策を巡らせて手に入れたこと。
淡々と書かれている中で、馬超の目に止まったのは、やはり趙雲との一騎撃ちで互角に渡り合い、尚且つ諸葛亮の策を見破ったという青年のことだった。
馬超より年下だと言う。
この青年は蜀にとって、きっとなくてはならない存在になるだろうことは、この時既に漠然とだが感じ取っていた。
そして任地より一時的に戻り、成都でその青年と初めて顔を合わせた。
策で諸葛亮を破り、武で趙雲と互角に渡り合える人間を勝手に想像していた馬超だが、それでもやはり浮かんだ像とはかなりかけ離れていた。
見た目は線の細い柔な青年だった。
趙雲の言葉を思わず疑ってしまったくらいだ。
仲間となった姜維の為に宴会が開かれ、結局挨拶程度しか言葉を交わさず、その日は終わってしまった。
しかも、その後姜維と言葉を交わす機会もなく、馬超は再び任の為、北へと向かった。
そして、この街亭の戦いを迎えたのだ。
成都での姜維は肩身の狭い思いをしているだろう。
降った将は、周りの目が冷たい。
例え蜀が情に篤い者達が揃っているとはいえ、やはり格が下だと見下されるもの。
特に諸葛亮の目に適った者として、僻む者達により一層と姜維の立場を苦しめる。
馬超も最初のうちは『魏から』というところが引っかかった。
だが、それはすぐに改めた。
『魏』が憎い訳ではない。
自分の一族を殺した曹操が憎いのだ。
何より姜維には全く関係のないことだ。
そんなことで、姜維という人物を見失ってはいけない。
それは蜀に来てから痛感したことだった。
小さな期待と不安を抱えたまま街亭に到着して、姜維達が来るのを待った。
馬謖と共に来た姜維は、しっかりと後方に下がっていた。
今置かれている自分の立場を弁えている。
いや、そうしないと角が立つから自ら引いているのだろうと、簡単に想像がついた。
しかしその一方で、馬超は今回総大将となった馬謖という人間を少しだけ危ぶむ。
馬謖は自分を少し誇張するところがあるのだ。
そういう人間はいつか落とし穴に嵌るだろう。
些細な日常的なことでならいいが、戦場では許されることではない。
そこには多くの人間の血が流れるのだ。
だが、諸葛亮が使える人間だと判断した以上、馬超が余計な詮索をする必要はない。
そして、事態が急変したのは、姜維達が到着した翌日の夜だった。
至急姜維の幕舎に招集がかかった。
そこには総大将たる馬謖の姿はない。
すぐに何が起きたのか分かったが、姜維が慌てないよう訴える。
そしてやや青褪めた顔で、地図の上で駒を動かし状況を説明し始めた。
最初に魏軍の動きと対する自軍の動きを説明している中で、馬超は心の中で感心していた。
趙雲の言う通りだった。
急な事態に僅かな動揺を見せているものの、冷静に状況を判断し、的確に動きを予測、更に対抗する手段を講じる早さは、並みの軍師を超えるものがある。
しかし、降将ということが隘路となり、自身の信用が得られるかどうか、微妙な立場を作らせている。
自分の一言が少しでも姜維に自信を持たせられたらいい。
この時ほど、自分に与えられた『五虎大将』という名を利用したいと思ったことはなかった。
自信が持てない青年に力を貸してやりたかった。
支えてやりたかった。
共に歩む者として。
そして今、自分の眼前を『姜』の旗が、戦場を駆けていく。
大きな波が来たのだ。
姜維が起こした。
「この機を逃すなぁっ! 全軍突撃ぃっ!」
馬超が大声を張り上げると、兵士達の喊声が夜空に大きく木霊した。
騎馬隊が敵兵を押し潰し、歩兵が止めを刺す。
弓兵部隊が姜維の一団を援護して、その部隊は勢いをつけたまま敵陣へと切り込んで行った。
「…………」
振るう三叉槍の流れ。
切っ先の流線が途切れることはない。
まるで舞踊を見ているかのようだった。
しかし、身の内から放出される気魄は、ただ者ではない。
離れていても、その気魄が肌を突き刺すかの如く痺れるように伝わる。
「確かに……」
武においても、趙雲の言う通りだ。
今の姜維に、馬超ですら勝てるかどうか分からない。
「強い奴が来たものだ」
自然と笑みが洩れた。
戦ってみたい。
槍をつき合わせてみたい。
もっと姜維という人間を知りたいと、強く思った。
だが、今はただ、この戦いを勝利させる為に戦うだけだ。
馬超も奮戦する姜維に負けまいと、馬上で大きく槍を振るうのだった。