一片の氷心
予想通り、魏延の軍は麓から魏軍本陣へと向かっていた。
麓に戻った時には、魏延の軍は最低限の部隊しか残っていなかった。
姜維は予想通りのことに苦笑いを見せ、命令を待つ自分の軍に向かって叫ぶ。
「今から我々は山頂正面の麓へ向かい王平殿の軍を援護し、馬謖殿を救うのだ!」
兵士達は武器を掲げ、威勢を上げて応えた。
姜維の部隊は山頂正面の麓へと回り、麓を駆け上がって馬謖とぶつかっている張コウの部隊の後ろへと廻るのだ。
つまり馬謖の軍と挟み撃ちにする。
これにはまず本陣へ突き進もうとする魏延軍の後ろを通り、麓より少し離れたところに陣取る魏軍の本体とぶつかる可能性が高い。
しかも最悪の場合、張コウの軍と魏軍の本体に挟撃されるのだ。
だが、逆に巧くいけば、馬謖の軍が本来の目的であった逆落としを掛けることが出来て、一気に魏軍の本陣を叩くことが出来るだろう。
魏延の軍が正面の敵を圧し、馬超達の軍が南から勢いづけば、本陣は崩れる。
巧く噛み合えば、完全な勝利となるのだ。
それだけに、戦いは苛烈なものとなるだろう。
魏延軍が正面の敵と戦い、山頂正面の麓へ続く道ができた。
姜維軍はそこを抜け、一気に張コウ軍の背後に廻った。
たちまち張コウ軍は混乱に陥り、隊を崩していく。
一方、魏軍の本陣では、軍師の司馬懿が苦虫を潰すような厳しい顔をして戦況を見守っていた。
司馬懿は蜀に降った姜維によって、既に自分の策が見破られたことを知っている。
しかし、まだ退けなかった。
壊滅した訳ではない。
打つ手がまだあるのだ。
そう思っていた矢先に、伝令が慌てて司馬懿の元へと走り込んで来た。
「姜維軍が張将軍隊の背後に侵入!」
伝令からの報告に、司馬懿は身体を震わす。
思ったよりも軍の動きが早かった。
姜維軍の機敏な動きに魏軍は翻弄され続けている。
「おのれっ! 姜維めっ! ……張将軍に伝えよ! 反転し姜維軍を潰せ、と。我が軍も前進し姜維軍を挟め」
兵士は一礼すると戦場へと向かった。
「許さぬ、姜維。生きて帰れると思うな」
持っていた羽扇が怒りで震えていた。
張コウの軍といよいよぶつかった姜維の元に、一人の伝令が駆け込んで来た。
「後方より魏軍が押し寄せております!」
やはり。
姜維は心の中で呟いた。
「ただでは帰してくれないという訳か……」
前方では馬謖と王平の軍が張コウ軍と激突していた。
それを見つめている張コウの姿を目に留め、姜維は一気に馬を駆ける。
後ろからの殺気に張コウが振り返った先には、姜維が槍を突き出していた。
寸でのところでかわし、自分に突然襲いかかってきた者を一瞥する。
「名乗りなさい」
姜維は馬から下りると、槍を構える。
「私の名は姜伯約」
「なるほど。貴方が姜維ですか」
司馬懿から聞いていた。
諸葛亮の罠に嵌り、蜀に降った者がいる、と。
張コウも馬から下りて姜維と相対するように構えた。
「罠に嵌った裏切りとは美しくない」
もう何度『裏切り』と言われても、罪悪感は感じない。
蜀に自分の置き場所を見つけたから。
「私は蜀で自分を見つけることが出来ました。それだけです」
後悔は、ない。
「いざ!」
張コウは魏の五大将軍の一人である。
その実力は五虎大将と呼ばれる趙雲達と互角だろう。
趙雲とは鍛錬をしていたとはいえ、元々の場数が違い過ぎる。
(やはり強いっ。五大将軍と呼ばれる実力は並じゃないっ)
姜維は少しずつ張コウの力に押されていく。
「っく……」
素早い攻撃をかわしきれず負った傷から血が滲み出し、姜維の戎衣を紅く染めた。
しかし、傷を気にしている余裕はない。
突き出した槍が張コウの武器である爪に食い込み、姜維は咄嗟に脚払いをかけた。
「っ!」
張コウは慌てて後ろへ下がる。
体勢を立て直したのは、姜維の方が早かった。
一歩踏み込み、槍を大きく振るった。
「あぁっ!」
切っ先が張コウの腕を深く抉った。
血が止め処なく流れる。
「将軍! お下がり下さい!」
親衛隊達に支えられ、張コウは悔しそうに姜維を見つめ後方へと下がっていく。
その為、軍の後方で戦っていた司馬懿の軍も一旦退いたので、態勢を整える準備が出来そうだった。
相次ぐ大将級との一騎打ちや間断なく続いた連戦により身体に傷を受けた姜維は膝をつき、咄嗟に愛槍を地面を突き刺して自分の身体が地面に倒れるのを辛うじて防いだ。
だが、戦況は刻々と動いている。
休むことは許されなかった。
「姜軍師! 魏将軍が魏軍に押されている模様です!」
「わかった……」
息が整わない。
しかし、一刻も早く態勢を整えなければ、流れを引き込んだとはいえ、遅れた一歩が命取りとなり兼ねない状況だ。
「姜維殿! ご無事かっ!」
聞こえた声に顔を上げれば、馬で駆けつける王平の姿があった。
「王平殿! ……ご無事でしたか。よかった……」
「それは俺の台詞ですよ! 貴方は何という無茶をっ」
慌てて馬から下り、王平は姜維の身体を支えた。
止血しようとしたが、姜維は首を振ってそれを拒んだ。
「王平殿……このまま一気に魏本陣へ逆落としを掛けて下さい。これが最後の仕上げです」
「姜維殿……」
「……できるだけ、相手本陣を掻き回して下さい」
姜維は王平に支えられながら、馬に乗る。
「姜維殿」
「はい」
「お約束、忘れないで頂きたい」
約束と言われ、すぐに思いつかなかったが、やがて思い出すと姜維は微笑んだ。
「ええ。かなり動きましたから、酒も美味しいことでしょうね」
「飲みすぎて、翌日には動けなくなりそうだ」
二人で笑い合った後、王平は一礼して自分の軍へと戻った。
姜維は整った軍の中に入り、槍を掲げた。
「我が軍は魏延殿の援護に廻る! 包囲を広げ、敵を押し包むのだ!」
反転した姜維軍は一気に魏の軍団を囲んだ。
相手の旗印は、『徐』。
「徐晃将軍、か」
何とも層の厚い魏の布陣である。
弱気になる心を叱咤し、姜維は馬を駆けて敵陣に切り込んだ。
徐晃軍全体を包囲して内に塞ごうとすれば、外へ出ようとする反発する力もまた強まる。
その魏軍の反発は大きかった。
しかし、姜維は自ら最前線に立ち槍を振るう。
「流石は徐将軍の軍だ……」
魏軍の柱の将だけに、統制の取れた軍はなかなか崩れることはなかった。
時間が経過しても、一進一退を繰り返すばかり。
魏延の軍は正面の敵を押さえるだけで精一杯だ。
(馬将軍!)
姜維は心の中で強く願った。
脳裏に浮かぶのは、街道での戦いで目に焼き付けた馬上に煌く孤高の将軍。
(馬将軍! どうか私に力を! 丞相、私に勇気を……)
姜維は愛槍を強く握ると、一気に敵の中へと駆け抜けていく。
それはまるで敵陣の中にできた穴のようだった。
突撃をする姜維によってできた空いた穴に、敵は集中する。
姜維軍が敵の注意を惹きつけている間に魏延軍を少し後退させればいい。
その意図が伝わっただろうか、魏延軍は少し後退した為に徐晃軍の層が広がり全体が薄くなった。
姜維は一気に敵内部へと突き進む。
「貴公の武、拝見しよう」