あなたに幸あれと私は願う
しばらくして、アザゼルはふたたびベルゼブブを見た。
「……なぁ、べーやん」
「はい」
「失いたないんは、ホンマに、あの探偵事務所か?」
「はい、そうです」
「ちゃうやろ!」
アザゼルは険しい顔をベルゼブブに近づけ、怒鳴る。
「べーやんがホンマに失いたないんは、さくちゃんやろ!」
ベルゼブブは少し息を呑んだ。
さっき頭によみがえった光景の中心には佐隈がいた。
今もまた、アザゼルがその名を告げた瞬間に、佐隈のことを思い出した。
出会ったばかりの頃は、庶民的な娘だという印象しかなかった。
悪魔使いとしては初心者で、知識にとぼしく、頼りない。
ベルゼブブは、内心、佐隈をバカにしてもいた。
ただ、芥辺と契約することになるのを避けたかった。
それだけだった。
はず、なのに。
彼女と一緒にいて、居心地の良さを感じるようになった。
魔界に帰ったあとに、彼女のことを思い出すようになった。
心に、彼女の姿が住み着いているのだ。
そのことを、アザゼルは以前から気づいていたのだろうか。
アザゼルは職能が職能だけに他人の色恋について鋭いということか。
けれども。
図星を指されてうろたえる、なんてことはしたくない。
ベルゼブブは表情を引き締め、射るような強い眼差しをアザゼルに向ける。
「だったら、どうだと言うんです?」
「惚れた女を別の男とくっつけようとするなんて、バカげとるわ。素直になったらええやん。好きやって、ゆーたら、ええやん」
「もし私が人間だったら、あるいは、彼女が悪魔だったら、そうしていました」
即座にベルゼブブは言い返す。
「でも、私は悪魔で、彼女は人間なんです」
この件については、考えに考えた。
だが、いくら考えたところで、どうにもならないこともある。
それを思い知らされた。
「私には彼女を幸せにすることができない」
「……べーやん」
「それでも、私は失いたくないんです。そばに、いたいんです」
なんて、愚か。
どうにもならないのなら、諦めればいい。
すっぱりと断ち切ってしまえばいい。
そう頭は告げる。
けれども、心が、感情が、言うことをきかないのだ。
「彼女はアクタベ氏の探偵事務所のアルバイトにしかすぎない。大学を卒業すれば、別のところに就職するかもしれません。そのときは、我々との契約を解除するでしょう。去っていくでしょう」
「……」
「でも、アクタベ氏と恋人関係になり、そして結婚すれば、あの事務所にとどまることになる」
芥辺はベルゼブブやアザゼルなどの悪魔に対しては暴力をふるうこともあるが、佐隈には甘い。
佐隈が事務所を辞めるのを阻止しようとしたこともある。
おそらく、芥辺は佐隈を大切に思っている。
そして、芥辺は強い。
第一、人間である。
彼ならば、彼女を幸せにすることができるだろう。
「べーやん」
アザゼルが穏やかな声で言う。
「ワシらは悪魔やで。悪魔は欲しいもんは無理矢理にでも奪うんとちゃうかったか?」
「悪魔であっても」
ベルゼブブは答える。
「好きだからこそ、相手の幸せを願うのでしょう」
彼女が苦しんでいるところを見たくない。
幸せになってほしい。
だれかを好きになるということは、きっと、そういうことなのだ。
しかし、自分は無欲になったのではない。
むしろ欲深い。
彼女を失いたくない、彼女のそばにいたいと思っている。
彼女が幸せであることを絶対条件にして、そばにいられる方法を採ろうとしている。
たとえ彼女が他の男の妻になるというものであっても。
そばにいられるなら。
それで、自分は、いい。
作品名:あなたに幸あれと私は願う 作家名:hujio