あなたに幸あれと私は願う
なにも考えないようにしよう。
そう自分に言い聞かせる。
けれども、やはり、頭の中は真っ白にはならない。
アザゼルの職能は淫奔だ。
人間の意志に関係なく淫らな気分にさせたり、あるいは、それとは真逆の状態にさせたりすることができる。
そのアザゼルの特殊な力が、さっきまで自分たちがいた部屋に向けて使われようとしている。
あの部屋には、今、芥辺と佐隈がふたりきりでいるはずだ。
今日の仕事の依頼はすべて片づいたので、ふたりの気分は落ち着いているだろう。
ふたりは悪魔が魔界に帰ったと思っている。
芥辺も、ある程度は油断しているだろう。
一方、アザゼルはいつもより集中し、時間をかけて、自分の力を発揮させようとしている。
その術が完成したとき。
今の芥辺なら、アザゼルの術にかかるのではないか。
それに、佐隈はもっと術にかかりやすいだろう。
だいたい、芥辺はおそらく佐隈に対して好意を抱いている。
佐隈さえ術にかかればいい。
術にかかった佐隈が我を忘れて淫らになれば、それを芥辺は雄として受け入れるだろう。
ふたりが抱き合っている光景が、脳裏に浮かんだ。
キスをして。
ふだんは服で隠れている部分に触れて。
想像でしかないのに、生々しい。
ベルゼブブは歯を強く噛みあわせながら、アザゼルの背中から眼をそらし、うつむく。
不愉快だ。
でも、仕方がない。
これ以外に方法が見つからないのだ。
佐隈をずっとこの探偵事務所に居続けさせる。
なおかつ、佐隈が幸せである。
その方法が、他にない。自分には思いつかない。
ただ佐隈をこの事務所にいつまでもとどまらせるだけなら、他に方法はある。
弱味を握り、事務所を辞めないよう脅せばいい。
だが、そんな方法は採りたくない。
彼女に幸せであってほしいのだ。
しかし、悪魔の自分には彼女を幸せにすることができない。
けれども、芥辺ならそれができるだろう。
ベルゼブブさん。
そう彼女の呼ぶ声が耳によみがえった。
イケニエができましたよ。
そう言って、ベルゼブブのまえに置いてくれる。
絶品のカレーを。
一緒に食事をし、一緒に仕事をし、特になにもないときも事務所で一緒に時を過ごした。
くだらないことばかり。
けれども、自分の心に残っている。
その記憶を温かく感じる。
失いたくない、と思う。
彼女を失いたくない。
そばにいてほしい。
同時に、彼女には幸せであってほしい。
きっと芥辺は彼女を全力で護るだろう。
芥辺とともにあることで彼女は、きっと、幸せに。
いや。
なにかが頭に引っかかった。
その正体はなにか考える。
そして、思った。
それで彼女は本当に幸せになれるのだろうか?
「……アザゼル君」
ベルゼブブはうつむいていた顔をあげる。
アザゼルの背中が見えた。
「依頼を取り消します。術を完成させないでください」
手を伸ばす。
「お願いします」
アザゼルの肩に手を置く。
ペンギンに似た、本来とは異なる形をした手で、アザゼルの肩をつかんだ。
作品名:あなたに幸あれと私は願う 作家名:hujio