あなたに幸あれと私は願う
「なんでや、べーやん」
アザゼルが振り返らずに言った。
低い、不機嫌そうな声だ。
無理もないとベルゼブブは思った。
アザゼルはベルゼブブの頼みを引き受けて、集中し、あの芥辺に術をかけようとしていたのだ。
それなのに、途中で突然に依頼が取り消された。
腹をたてて当然だろう。
だから。
「私は浅はかでした」
ベルゼブブはアザゼルの質問に対して正直に話すことにする。
「今、ようやくそれに気づきました」
格好つけずに自分の胸のうちにあるものをさらけ出そうと思う。
「私はさくまさんを失いたくない。同時に、さくまさんには幸せであってほしいと思います。だから、君にこんなことを頼みました」
アザゼルが引き受けたのは友人だと思ってくれているからだろう。
こんなわがままと言える頼みを。
「さくまさんを失わないで、なおかつ、さくまさんが幸せであるなら、私はさくまさんが他の男の妻になってもいいと思いました。でも、それは勝手な話だったんですね」
どうして今まで気づかなかったのか。
自分にとって都合が悪いので、その事実を見ないようにしていたのだろうか。
「さくまさんはアクタベ氏と一緒になれば幸せになるかもしれません。しかし、そうなるだろうとしても、さくまさんがアクタベ氏を好きになってからのことです。こういう形で、無理矢理にくっつけるのは良くないでしょう」
人外の力を使い、彼女の意志をなぎ倒してしまう。
それで本当にいいのかと思った。
彼女はそれで本当に幸せになれるのかと思った。
「彼女の相手をアクタベ氏にしたのは、彼女を失いたくない私にとって都合がいいからです。彼女に幸せになってほしいと言いながら、私は自分にとって都合のいい相手を彼女に押しつけようとしました。彼女の気持ちを考えたわけではありません」
自分勝手だ。
傲慢だ。
そのことに、ようやく気づいた。
「……せやけど、もし、さくちゃんがこの事務所と関係ない男と一緒になったら、さくちゃんはここから去っていくで」
アザゼルがさっきよりは穏やかな声で告げた。
「そうなるでしょうね」
あっさりと、ベルゼブブはうなずく。
佐隈がこの事務所を去るのは、他の会社に就職するときだけではない。
芥辺以外の男に恋をし、その相手と結ばれたときにも、彼女はこの事務所を去っていくだろう。
「でも、しょうがないです」
事務所を去ったあと、佐隈はもう魔界とは関係のない暮らしをするだろう。
自分たち悪魔とは関わらないようにするだろう。
「それで、さくまさんが幸せになるなら」
ベルゼブブさん。
何度も名前を呼ばれた。
その声を聞くこともなくなるのだろう。
「さくまさんを失うことになっても、それで、さくまさんが幸せになるなら、それでいいです」
彼女にとって、悪魔は、自分は、ただの過去となり、胸の奥底にしまわれるのかもしれない。
それでも。
しょうがない。
想像するだけで、心がひどく痛むのだけれど。
「アザゼル君」
「なんや」
「私はね、本当に、さくまさんに幸せになってもらいたいんですよ……!」
言葉の途中で感情が高ぶって、それが外に出るのを抑えることができなかった。
彼女を失いたくない。
だが、それ以上に、彼女には幸せになってほしい。
どうか、幸せに。
そう願う。
私は、とベルゼブブは胸の中に住み着いている彼女の姿に向かって言う。
あなたの幸せを、心から願っています。
さくまさん。
作品名:あなたに幸あれと私は願う 作家名:hujio