春夏秋冬
初めてその光景を見たのは、彼が怪我をした秋の終わり。
放課後、見事なまでの静寂と夕暮れを背負い、彼は裸足のまま椅子の上で胡坐をかき、どこから持ってきたのかは知らない、けれどイーゼルに立てたキャンバスに向かっていた。
たったひとりしかいない教室。
入った瞬間、微かに油のにおいがした。しかしおれが足を踏み入れても、田島はぴくりとも動かなかった。ただ一心に真っ白のキャンバスを見ていた。
息も、瞬きひとつも、出来なかった。
田島は筆を左手で持っていた。しかし微かに震えていたのは、間違いなく右だった。それを見た途端、おれは思わず瞼を閉じ、両手で顔を覆ったのを覚えている。
今もまた、あのときと同じ光景が目の前にある。
結局田島は朝のホームルームにも、授業にも出なかったくせして、放課後である今になってひょっこりとそこにいた。空っぽだった座席。そこにいた。
かつてと同様に裸足で、じっと白いキャンバスを見ている。
左手には、ペンチングナイフがあった。それでも震えているのは、やはり右だった。右でしかなかった。
黄金の、夕暮れ。
窓の向こう、銀杏の葉が見える。
おれは田島と話したことも、目を合わせたこともない。
けれどずっと、彼の絵を見てきた。油絵だ。田島の描くものはすべて、おぼれそうなほどの絵だった、色だった。
草原も、のはらも、川も、海も、異国のどこかでさえも。田島が描けば、なつかしいもののように思えた。すべてだ、すべて、目に溢れた。
ひたひた、と足音を立て、キャンバスに近づく。
烏のような目をしているそれに近づく。静かだった。時折遠くで笑い声がしたが、それでも静けさが満ちていた。田島の周りは、驚くほど静かだ。
一歩近づくと、油のにおいがきつくなる。
おれの足は震え、丸まった背から少し離れた距離でそれは止まった。おれはただずっと、観客の位置にいる。
展示会にあった絵、丸まった背中、そして田島悠一郎を、少し離れたところでいつも見ていた。
対岸にいるようだった。
間には川が、清冽に流れている。おれは身動きひとつ取れず、田島は、ひとり駆けてゆく。
「なあ、」
びくりと肩が揺れた。
田島はキャンバスから目を離さず、呟くように言った。
「なんで、いつも見てんの」
丸まった背だ。
おれは田島の声を聞きながら思った。
スポーツ全般を得意とし、皆に囲まれてけらけらとわらっていた。その背は、こんなにも小さかったのか。
田島が絵を描かなくなったことを知っている。それでも放課後、ひとりでキャンバスに向き合っていることも知っている。本当は左手でも田島は誰よりも上手く描けた。けれどたった一枚きり、左手で描いて以降、彼は何も描かなくなった。ただ、白いそれを見つめるだけだ。
おれは対岸に、いつもいた。
「なあ、」
はない、と張り詰めた声が聞こえた瞬間、息がつまった。短く硬そうな髪が、丸い背中が見える。
遠くで、鳥の声がした。
「いつも、みてただろう、花井。遠くから、とても、とおくから」
静寂が満ちている。
線が張り巡らされ、田島はひとり、そこにいた。
おれは田島の笑い顔を覚えている。
描いた空も、草原も、海原も、丘も何もかも。
目が、おぼえていた。
「色の中、だ」
声が、漏れた。
遠くで、そうだ、鳥の声。笑い声。
「あふれる色の中でしか、生きられないんだと思ってた」
初めて田島の絵を見たとき、すべてが震え、思わず泣いていた。ああ、絵を描かないと生きてゆけない人がいるのだと。それが田島なのだと思った途端、おれは胸がつまって、馬鹿みたいに泣いていた。おれは中学のときから田島が嫌いだった。
皆から好かれ、彼は何もかもを手にしている人間なのだと信じていた。
「おまえは、からっぽ、なんだ」
色の中でしか生きられぬ。
それはおそろしいことだと、飲み込まれそうになる絵を見て思った。初めて見た田島の絵は、花の絵だった。
嵐の中、荒ぶれる風の中、それでも根を張り、白い花が咲いているものだった。
田島の絵は、すごい。すごいけれど、さびしい。理解することは誰にもできない。田島だけの世界だ。ひとりぼっちの世界が、描く絵だった。
がん、と音がする。
激しい音ではないが、鈍く、鼓膜に響いた。視線を上げれば、田島がペンチングナイフをキャンバスに突き立て、静かに宙を見ていた。
そしてゆっくりと振り返り、おれの目をじっと見た。
心臓が、うるさい。
田島の目がおそろしい、ガラス玉のようだ。
「花井は」と無表情のまま彼は言った。
「目を、えぐり出したい日はないか」
静かな声音だった。夕暮れが、彼を包み込む。
黄金色の目、短い髪。
「何が、わかるの」
「おれは、」
「おまえは見ていただけだ、それだけだ」
「おれは、人よりも、ふかく、殊更深く、色が見えるんだと、おもっていた、おまえは、田島は。だから、あんな絵が描けるんだって。それは、さびしい、だろう。田島、たじま、それは、さびしかっただろう。人と同じものが見えぬ世界だ。そんなところにひとりでいて、それは、さびしかっただろう、田島」
ひとりぼっちの世界だ。
きっと、人と笑い合っていた頃もずっと、その世界に田島はいたのだ。
背を丸め、裸足のままで、白いキャンバスに見える色を塗りたくっていたのだろう。
おれも、そして誰も、そこにはゆけない。
対岸だ、いつもお互いが見えない。
田島の手が唐突に伸びてきて、おれの首を捉えた。思ったよりも、つめたい手だった。驚きで目を見開くと、田島が抑揚のない声で「目を、えぐりだしたい日もある」と言った。
「花井には、きっとわからない」
左手に力を込め、黄金の目が瞬く。
それでもおれは「わかる!」とくぐもる声を張り上げて言った。何にも負けぬように叫んだ。
「もし、本当の意味で分からないのだとしても、おれは」
「花井、」
「ずっと、」
「はない、」
「ずっと、だ」
「はない、あずさ!」
「ずっと理解、したかった」
ひとりぼっちの世界。
色が満ち満ちる世界。
さびしいところだ。なんて、さびしい。
秋の終わり、彼はその世界で生きる手段を失った。右手は動かない。田島は秋が近づくたび、感情が高ぶる。内に殺していたすべてのものが、滲み始める。
おれはずっと、田島を理解したかった。
対岸の向こうに、ずっと行きたかったのだ。
泳いでも、走っても、何をしてでも。
「おまえの目が、ほしかったんだ、田島」
首に巻きついていた手が不意に解けた。
瞬きをするその右目から、零れ落ちるものが見える。
息を飲んだ。
夕暮れ色に染まり、それは黄金のなみだの粒。
田島が、泣いていた。ぼたん、となみだを零していた。
震えたが、その手をゆるゆると伸ばし、おれは田島の頬に静かに触れた。
烏色の目が、こちらを見上げる。
おれはずっとだ、ずっと、その目と同じものが見たかった。
黄緑色の草原、色とりどりの野原、黄金の海原、対岸の向こう側。きっと、目を凝らしたって、田島と同じようには決して見えないのだろうけれど。
「目の奥に、いつも、嵐があった」
利き腕を奪っていった秋の終わり。
田島はまるで心底憎んでいるもののように黄金色に染まる葉を見て言った。
「それは常に、色となってあふれ、目が痛んだ、手がふるえた。嵐だ、すさまじいほどの」