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犀と歩く

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「カヲルくんって不思議だ」
「何故?」
「だってさっきから、ポケットからずっとお菓子とか食べ物とかあふれるように出てくるんだもん。手品みたい」
冬の湖に、ちらりと光を落とすように彼の白い歯が暗闇に零れる。
リュックから取り出したランタンにマッチで火を点すと、手元が明るくなった。彼の顔も昼までとはいかないが、朝方ほどの明るさで見えた。オイルの匂いが、どうしてか懐かしい。
「だってシンジくんと食べようと思って、一杯買い込んだんだ」
「重くなかった?」
「きみの体重より軽いから平気。一応「もうだめ、カヲルくん、ぼくもう歩けないよお」ってきみが言っても大丈夫なように体力つけてきたからね」
「カヲルくんって案外、ばかなとこあるよね」
悪戯っ子のように笑う彼は、ナイフで塩漬けされたハムを薄く切り落としていた。チーズもあるし、ライ麦パンも準備されている。牛乳はさすがになかったけれど、ハイジの世界のようだと腹をすかせたシンジは唾を飲み込んで思った。
くたくたに疲れたから、食事がこれまで以上に美味しそうに見える。体が欲している。単純だが、その欲求に対して、自分は生きているのだと感じられた。
「はい」と差し出されたパンに、いただきますと言ったそばから齧りついた。
目を丸くしていた彼は「指まで食いちぎられるかと思った」と冗談を飛ばす。じろりと睨むと、おおこわいこわいと、急いで視線を逸らして食べ始めた。
不思議な彼。
食べ終え、満腹のまま薄汚れた床に寝そべった。
「牛になるよ」
「いいよ、牛でも。だって気持ちいいし」
「埃っぽいけどね」
シンジに倣って彼も仰向けに寝転がる。床に薄手のキルトを敷いていたが、床に溜まった埃の匂いは鼻についた。割れたガラス窓から、びゅうびゅうと風が吹き込む。
「虫が集まりそうだし、そろそろ消すね」
 ふっと息を吐く音が聞こえたかと思うと、ランタンの灯りが消えた。
「真っ暗だね」
「うん、きみの声が、さっきより近く聞こえる気がする」
「不思議だね」
「うん、人工的な明かりの中で過ごしてきたから、こんな暗闇は初めてだ」
「ぼくも。こんなに歩いたのも初めてだよ。きみといると、飽きない。ずっと、初めてのことばかりだから。新鮮で、すごいね、すごい、不思議だ」
「さっきから、不思議って何回も繰り返してる」
シンジは暗闇の天井をじっと見つめていた。天井がくり貫かれ、丸く穴が開いたその先に満点の星空が見えたとしてもそれを不思議とは思わない。
渚カヲルにまつわる様々なものやことが不思議でならないだけだ。
「シンジくん」
「何?」
「犀の角のようにただ独り歩め、って言葉知ってる?」
「サイの角?」
「うん。仏陀の言葉だって、何かの本で読んだんだ。「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」って。何にも捕らわれず、犀の角のようにただ真っ直ぐ、ひたすらひとりで修行しなさいって意味だと思うけれど。今ふと、思い出したんだ」
「たったひとりで、なんて、さびしいよ」
暗闇がそうさせるのか。素直にそう感じたままを告げた。
「うん、さびしいね。でも、そんなときが来るかもしれないから。覚えておいて。シンジくん、きみはひたすら前だけ見ていて、後ろを振り返っちゃいけないよ。やさしいから、きっと飲まれてしまう」
「じゃあそのときは、カヲルくん、きみが隣にいてよ」
ぶっきらぼうに言い放った言葉に返事はなかった。一世一代の告白のように、照れくさい言葉だったにも関わらずだ。
シンジはカヲルに背中を向け「きみの言ってることって、たまに難しくって分からないよ」と尖って言う。それなのに彼は分かっているのかいないのか、「大丈夫、きみなら大丈夫だよ」と答えになっていない言葉を返した。
不思議な彼。
そのまま寝入ろうとしたシンジに、「ねえ、シンジくん」と声を掛けてきたタイミングすら計ったようで忌々しく感じられた。
「ぼくの名前を呼んでくれないか」
「どうして」
「どうしても、今呼んでほしくて」
重い瞼を押し上げて天井を見つめる。
今何時だろう。そういえばどうしてこんな旅をしているんだっけな。
回らない頭と向き合っていると、またねだるように彼が呼んでという。仕方なしにシンジは喉を笛のように鳴らした。
「なぎさ、かをる」
「もう一回」
「こどもみたい」
「まだこどもだよ」
「ばかな、なぎさかをる」
「もう一回」
「なぎさ、かをる」
うん、と味わうように呟く。
「自分の名前が、全てを示しているようでとても嫌だったけど、これからは好きになれそうだ」
「どうして嫌いなの?」
「皆がぼくを通して終わりを見るんだ」
「どうして」
「きみは」
「とてもきれいななまえだって、ぼくは、ずっと、おもってたんだよ」
 不思議な彼。似合っている名前だと、ずっと思っていた。言ったきり、すうっと眠りに入ったシンジは、彼がそれからどう反応したのかは分からない。
ただ後になって、もっと名前を呼べばよかったと後悔した。とてもとても、きれいな名前だったのだから、もっともっと呼べばよかった。
その晩、彼の話の所為だろうか。湖のほとりを犀とともにひたすら歩く夢を見た。
毛はなく、厚い皮は乾ききった泥の層のように見えた。しかし目は円らで、黒ダイヤのように濡れた輝きを秘めていた。
作品名:犀と歩く 作家名:夏子