二次創作小説やBL小説が読める!投稿できる!二次小説投稿コミュニティ!

オリジナル小説 https://novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
二次創作小説投稿サイト「2.novelist.jp」

犀と歩く

INDEX|7ページ/15ページ|

次のページ前のページ
 




碇主任!というよく通る声は閑散とした地下書庫に響き渡った。
閉館したとは言え、未だ就業中である。仕事用の三輪車をかっ飛ばして来た小娘に「静かにしなさい。そんな大きな声を出したら本が驚いてしまうだろう。それに利用者がいなくてもまだ仕事中な筈だよ、奥野くん」と嗜めた。
すみません、とへらへらわらうその顔からはどう考えても反省の色が見えない。はあと溜息をひとつつくと、シンジはまた配架に徹した。
今年アルバイトとして入って来た奥村は国立大学の三年で、底抜けに明るい性格から「ハッピー奥村」と渾名されている元気娘である。今もまた空気を読まない彼女は「今、沢渡さんと初恋について話してたんですけどお」と言いながら蔵書の点検をようやく始めた。
「沢渡さんはすきな女の子をいじめてしまうという典型的なジャイアンであるということが判明しました」
「そう、それはよかったね」
「あ、その淡白な反応!さては聞いてませんね!」
「仕事に関わっていない話を、何で聞かなくちゃいけないの」
「冷たいなあ、碇主任は」
「ぼくほど熱い男はそうそういないよ」
「うっそだあ」
「はい、口だけじゃなく、手も動かして」
下がったアームバンドの位置を戻してから新しい蔵書を手にする。
奥村は「これ破れてますよお、最近のひとって扱い悪いんだもんなあ」とぶつぶつ独り言を零しながら作業をしていた。口数は多いが、その分手も速い。どんどんと点検は進んでゆくのが見て取れる。あとは性格だけだなと手厳しいことを思いながら仕事をこなしていると、不意を突くように奥村がまた口を開いた。
「碇主任はどうですか?」
「何が?」
「初恋ですよお」
ふうん、と嘆息をつく。
初恋などと考えたことがなかった。自分のこともままならなかった時分は、生にしがみつくことに必死で形振り構っていられなかったという理由もある。
しかし、とおもう。
一度だけ、恋をしたというなら思い当たる人がいる。
「奥村くん、古事記を読んだことは?」
「何で今そんな話を?古事記ですよね、高校のとき、授業で習ったきりです。あんまり覚えてもいませんけど」
「また読んでみるといいよ。ぼくも人に触発されて読んだから偉そうなことは言えないけど、結構目新しくて、面白い」
へえと漏らす彼女の目は好奇心に満ちている。性格はともかくとして、彼女の本に対する情熱に対してだけは好意を抱いていた。
「あ、でも覚えてるところもありますよ!あの、鼻や口やお尻から食べ物を取り出して料理した神様のところとか!」
「大気都比売神?」
「そうそう、当時かなりのインパクトで、聞いたとき手がわなわなしましたもん」
「きみ、結構変わってるって言われない?」
「ひどい!女子に対して何たる暴言!碇主任こそ変わり者だって専らの評判ですよ。あの、日本国最高位の大勲位菊花大綬章を蹴った人なんて後にも先にも碇主任だけだって。国の宝ってことですよ、国宝です、国宝!それだけの働きを、若干十四歳で成し遂げたんですよ!もらうだけ、もらっとけばよかったのに」
ははは、と朗らかにわらっていると、何故か奥村が歯痒そうに地団駄を踏み出した。
「ははは、じゃないですよ、もう。それに、初恋の話だった筈なのに脱線してますよね。もしかしてはぐらかされてますか、わたし。こうなったら、碇主任の初恋の相手を訊くまで今日は帰りませんから!」
「うーん、はぐらかした覚えはないけどなあ。古事記の中で、倭建命という皇子がいただろう」
「倭建命ですか、あの源義経みたいな境遇の?」
「まあ平たく言えばそうかな」
「確か、父親に恐れられ、次から次へと討伐の役を任せられたんですよね」
うんと頷くと、ふとやわらかな笑顔を思い出した。手が止まったシンジを不思議そうな顔で奥村は見ている。
「初恋のひとは、倭建命みたいにならないでほしいって言ってくれたんだ」
「碇主任を、ですか」
「そう」
「へえ、変わった人だったんですねえ」
「断じてきみに言われたくない」
「で、その子とは?」
興味津々の爛々とした目に、そっと笑い掛けてやる。「碇主任、そんなやわらかくわらえたんですねえ」と失礼な小娘を尻目に、シンジは蔵書の背表紙に触れた。
「旅をしたよ、たった一度だけ、ふたりきりで」
「ロマンチックですねえ」
「でも、そのすぐあとに別れた」
「どうして、ひどい!」
「何を以てひどいって言ってるのかわからないけど、仕方なかったんだとおもう。今でも別れが必要だったんだって、自分に言い聞かせてるよ。すてきなひとだったんだ。今まで見たこともないようなきれいなひとでね。近くにいれるだけで、自分が特別になった気がして、ばかみたいにはしゃいでた」
「そんなにすきだったなら、奪ってしまえばよかったのに!」と奥村がハンカチを噛み締めて叫ぶ。本当に感情の起伏の激しい子だ。
「暴力的な考えだなあ。でも、本当に、そうすべきだったと今ならおもうよ」
いかりしゅにーん、と泣き出しそうな声で彼女は呼んだ。彼女に心配されるほどにひどい顔をしていたのかもしれない。
シンジは上司失格だなあとおもいながら、「本当に、とても、すてきなひとだったんだ」とわらってみせた。
作品名:犀と歩く 作家名:夏子