From you
由々しき事にそれから先の、その夜の記憶を僕は持っていない。と言うのも、どうやらその後生まれて初めてアルコールを摂取したらしく、気が付いたら自室の布団の上で丸くなっていたからだ。しかも隣には何故か男が座りこんで僕を眺めていた。
薄いカーテンから差し込んだ光が埃を反射してキラキラ光る背景をしょって、白い太陽光に黒い髪が透き通るような嫌に演出効果のある日差しの下、男は笑って僕におはようと言った。
だんまりを決め込んだ先輩を前に僕は己の城だと言うのに所在なく体をもぞもぞさせた。僕の前では割合胡散臭い程に爽やかな笑みをたたえている先輩が、いつか見た写真の偉人の様な迫力のある不機嫌さを撒き散らすと僕は酷く、隠された年の差を感じいって倣うように口数が少なくなってしまう。
「晩御飯、食べていきますか?」
とうとう居たたまれなさに立ち上がった僕を見上げた先輩は、表情を変えずに頷いた。
謎の男と謎の一夜を過ごしてしまった僕は、起きぬけの喉より情けない悲鳴を絞り出して下宿から脱兎のごとく逃げ出した。いつの間に着替えたのか寝巻のまま外に出てしまった事に気付いた時にはすでに知人宅のインターホンを押した後で、扉を開けた彼は早朝にパジャマで現れた同期生を半分寝ぼけたまま迎え入れてくれた。
「黒いコートの男?」
「そう、フードにふわふわの付いたやつ」
「……ああ、あれ、あの人ね、折原さん」
知人はしばらく視線を宙に漂わせてから何度かうなづいて「ありゃ妖怪だ」と言った。
「妖怪?」
「そ。てか悪魔とか、カマイタチとか、色々言われてるんだが、まあまず間違いなく人間じゃないな」
早朝の訪問者に理由も聞かず、熱い緑茶と私服を提供してくれた知人は真面目な顔をして学生間でささめかれている男の噂話を語って聞かせた。
「とにかく、あの人がいつから大学にいたとか、詳しいプロフィールは誰も知らねえの。モグリとか、幻の9回生とか言われてっけどね。同期らしい平和島さんっつーのがいるんだけど、その人もまた化け物らしくて誰も確認取れたことないから結局わかんないんだと」
「…はあ」
知人の語るその同期生同士の流血事件を聞きながら、僕はある一つの事が気になっていた。
「あのさ、その折原さんってつまり変わった人なんだよね」
「そういう事になるな」
「……変な趣味があったりとか、つまり……せ、性癖が変わってるとか」
「はあ?知らねえよ、そんなん」
知人は怪訝そうな顔を僕に向けて、欠伸をし、そして「あ」という顔をした。
「そういやお前、なんで寝巻のまんま家に来たんだ?」
僕はお茶を器官に詰まらせて盛大にむせた。
なんとかあいまいな言葉をみつくろって、知人に礼を言うと大学へ行く事にした。今家に帰ることはとてもじゃないが出来そうもない。
正門から一番遠いトイレの個室へ入ると一通り体を点検して、全く何の異常もない事にほっとしてから大人しく授業を受けた。
しかし、黒板に書かれる幾つもの数列は頭に入らず、部屋の鍵かけ忘れたな、財布置いてきてしまったけど大丈夫だろうかと急に心配になった。
その日の授業を全て終えることなく、僕は意を決して下宿へ戻る事にした。もしかすると、まだ折原先輩がいるかもしれないと思い憂鬱であったが、いなければいないで酷く恐ろしく感じた。
おっかなびっくり手をかけたドアノブは無防備に開いた。
「うっ」と思わず呻いてしまった事を恥ずかしく思いながら神経を尖らせて玄関に立ち部屋を見渡すが、誰もいない。
「……夢だったのかな」
何の気配も感じない部屋に、疲れがどっと押し寄せて体を包んだ。
夕焼けの橙色が窓から差し込んで、四畳半は全く変わらない空気でもって僕を迎え入れてみせたのだった。
それからしばらく、僕の身辺に特に変わりは無かった。
ただ一つ、もう二度と学生の酒盛りには潜り込むまいと固く誓った以外は。
ところが新人歓迎会シーズンも過ぎた五月の終わり、僕の前に可憐な乙女が次々と現れるようになった。
そして彼女たちは決まって同じことを言う。
「折原先輩に紹介してほしいのだけど」
竜ヶ峰帝人は折原臨也と大変仲が良く、彼から紹介された女性は高確率で折原臨也の彼女になれる、と言う根も葉もない噂がどう言うわけか彼に思いを寄せる女子学生に広まっていた。
かくして、僕は血走った眼の恋する乙女たちに日に何度も追いかけまわされ、とうとう折原先輩に誤解を解いてもらうよう嘆願しに行かなければならなくなった。
それからの紆余曲折については語るも涙の大変骨の折れる、折原先輩と二人三脚の地道な作業の連続で、その末何とか噂を七十五日に留めることに成功した。
僕の変わりに白羽の矢を立てられた大学近くを散歩していた猫は、その恩恵にあやかって今日もぶくぶくと太っていく。
これはかなり後から聞いたのだが、噂を流した張本人は折原先輩自身で、飲み会で僕は彼と意気投合したが、残念な事に僕がその夜の記憶をすっかり忘れてしまっていた為、何やら勘違いをして自分を避けていた僕ともう一度二人で話す機会が欲しかったのだと笑いながら自白した。
それが本当なのか嘘なのか僕には知る術がないが、今さら折原先輩との仲をやり直そうとは思わなかった。少し気難しいところもあるが、大抵の事は知っているし出来る。何よりたまに振るってくれる料理の腕に僕の胃袋はがっちり握られてしまった。
ふと、カレーを口にする先輩を見て僕は引っかかるものを感じて首をかしげた。
相変わらず不機嫌な顔をした先輩はいつもほがらかな声音を低く鳴らして僕を見た。
「どうしたの?」
「先輩って人参嫌いじゃなかったかな、と思ったんですけど……すみません、勘違いでした」
僕はこめかみを指で刺激しながら言った。先輩が家でカレーを食べる光景なんてこの一年ですっかり見飽きてしまう程よくある風景だ。
忘れて下さいと笑うと、先輩は僕をじっと見つめて「思い出したの?」と聞いた。
その瞳からは先程までの不機嫌さなど吹き飛んで、僕の瞳の底から水をくみ上げようと奥へと手を伸ばすような色があった。
「思い出すって何をですか?」
「……いや、なんでもない」
「あの、嫌いなんですか?」
「人参?嫌いっていうか、苦手かな。煮てあれば食べられなくもないし」
しれっとして、カレールーから頭を出すオレンジ色の根菜をスプーンで二つに裂く先輩に、僕は悔しいのだか思わす尖った声を出した。
「それならそうと言って下さいよ」
「言ったんだけどな」
「言ってませんよ」
「…………」
「……?とにかく、今度からちゃんと嫌いなものは嫌いだって申告して下さい」
この一年間彼はカレーが好きだと思っていた自分が酷く馬鹿な生き物のように思えて、僕は自身に腹を立てた。
先輩と入れ違いになったように眉間にしわを寄せてカレーライスを胃袋へ運ぶ僕を、先輩は微笑ましい生き物を見るような眼で見て
「だって君が作ったものだから」
と、のたまった。