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Cherry Blossom

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長い廊下の突き当たりに近いドアの前に立ち、深呼吸をする。

―――落ち着いて。落ち着いて。

何度も自分に言い聞かせた。

―――泣き顔を見せたらダメだ。笑顔になって。

深く息を吸って吐いて頭を振り、笑顔を張り付かせると、ノックをして中へと入った。

窓際のベッドに上半身だけ起き上がっていた君は、こちらに顔を向ける。
白いパジャマに、短く切りそろえられた髪。
腕には点滴用の注射針が刺してあり、顔は青白く、ほほは削げていた。

―――ああ……

僕は絶望的な気持ちなる。


―――世界が終わってしまう……

涙が溢れそうだ。
どうしてこんなことになったんだ?



目の奥が痛い。
胸が痛い。
全身から力が抜けて座り込みそうになる。


僕たちは和解したのに。
肩を並べて笑い合い、過去のいがみ合いですら笑い飛ばし、ジョークにしたのに。

これからだと言って、互いに笑っていたのに、―――どうして?


彼の元から細身だったからだは余計に細くなり、癖のない銀色の髪は伸ばしたことがあっても、こんなにも無残に短くなったことなどなかった。
治療の邪魔になるからという理由で、身なりに気を配ってなどいられなかったのだろう。
そうでなければ、彼がそんな短かすぎる髪型を許すはずもなかったからだ。

きれいで、凛とした背筋も、きつい眼差しも、みんな好きだった。

大好きで大好きで、僕は自分の思いに感謝して、それを君に少しずつでも分かってもらおうと、理解して欲しくて、愛しくて、恋しくて、そして僕は……

僕は……


あんなに流すまいと心に誓ったはずなのに涙がこぼれそうで、僕は自分の不甲斐なさに俯く。
肩が震えそうになるのを必死で押しとどめた。
そして、何度も深く息を吸って心を落ち着かせて、やっと顔を上げる。

「今日は天気がよくてね、ここへやってくる前に公園を通ったんだ。休日だったからたくさんの人がいてね、ワゴンのアイス屋が出ていたよ。今年初めてじゃないかな?ほら、君が気に入っていたあのおじいさんの店だよ」
「ああ、あの店はバニラが美味しいんだよな」
「期間限定の新作が出てたよ。生の苺が入ったジェラートで、結構人気があるみたいだよ」
「へぇー、美味しそうだな」

君は楽しげに目を細める。
きつくて薄青い瞳が細められて、まるで猫みたいだ。

ふと思いついたように君は優雅な仕草で手を差し伸べて、僕の髪の毛に触れてくる。
形のいい指先の感触に頬が熱を持ち、嬉しさにまた泣けてきそうだ。


僕はこんなに感激屋ではなかったはずだ。
人との距離を取り、あまり深く他人とはかかわらないようにする癖があり、ひどく臆病で疑心暗鬼だったはずなのに、彼にだけは心がすぐに揺さぶられてしまう。
惹き付けられてしまう。
彼だけがすべてだと、大げさに感じて心が叫ぶ。

きっとこの感情は理屈ではないんだと思う。


君の指が前髪を撫でるように滑っていく。
そしてまたつむじから右へと、僕の癖の強い髪の毛を梳いた。
君の指が触れるたびに、目の前に何か白っぽいものがふわりと落ちていく。

「今、桜が満開なんだな」
「えっ、どうして分かるの?」
驚いて顔を上げると、相手の顔が思ったより近くあって、僕はドギマギと焦り、また俯いてしまった。

「だって、君の髪に花びらがたくさん付いているから。ほら―――、背中のフードにも入っているぞ」
笑いながら、からかうように僕のパーカーのフードを引っ張りひっくり返す。
そこに入っていたものが僕の頭に降りかかって、思わず頭を振った。

目の前を花びらが舞い、その向こうで君は笑い、僕はその世界の美しさに見とれる。
体調を崩した君は窓を開けることも出来なくて、すりガラスの向こうの外の季節の移り変わりも知らない。

細くなっていくからだ。

薬草も魔法も薬もみんな嘘っぱちだ。

君を助けてくれない。

誰か彼を救って欲しい……

お願いだ。


君の指が僕の髪に触れ、肩に触れて、背中についていた花びらを払う。

―――僕に触れるのは嫌じゃないんだ。

ただそれだけで嬉しくて嬉しくて、切なくて、泣けてきそうで、思わずその手を握りしめた。
その強さに戸惑った君は少し驚いたように動きを止めて僕を見詰める。

「今年の桜はもう満開で間に合わないけど、桜はまた咲くんだし、来年はいっしょに見に行こうよ」
祈りを込めるように、願うように、僕は君を誘う。

ベッドの君はその言葉に笑って頷いた。
「ああ、そうだな……。来年は満開の桜の下を歩こうか」
柔らかな君の笑み。

目を細め、微笑み、また僕の髪を君は梳いた。
君が触れるたびに、僕にまとわり付いていた花びらがヒラヒラと舞い、ベッドにも君の肩にも桜の花びらが落ちていく。


世界が薄桃色に染まっていきそうだ。



君は身動きしてベッドから少し伸び上がり、屈んでいた僕に近付く。
「―――じゃあ、今年は君が運んできたこの桜の花で我慢するよ」
そう言って君は少し悪戯っぼい仕草で、桜の花びらにまみれた僕の髪の毛をかき回してからかい、朗らかに、楽しげに笑ったのだった。



作品名:Cherry Blossom 作家名:sabure