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[アクさく] 空の下、星の下

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「結構降ってるね」
 駅前では色とりどりの雨傘が往来している。隣の芥辺も、片手で烏ばりに黒々としたジャンプ傘を開く。まだ降りつづいていたとはたちが悪い雨だ。しばらく雨音の届かない地下にいたために、佐隈は先ほどの駅前で繰り広げた葛藤についてすっかり失念していた。
「さくまさん、傘」
入って。どうして、私が傘を持ってないって分かるんですか?だって、持ってないんだろ。でも、もしかしたら鞄から折りたたみ傘が出てくるかもしれませんよ。そう。そうですよ。でも今日さくまさんは一本も傘を持ってない、分かるよ。
「だからこうして、わざわざさくまさんを迎えに来た」
 芥辺はうそぶいて、肩にかけた傘を振ってみせる。しかしそれは事実だった。まさか我が悪魔使いの師匠は鞄のなかが透けて見えるのではあるまいか。いや、むしろ世界中のあらゆる場所を見通せる目でも持っているのかも。事務所までの道を濡れて行くわけにもいかず、素直に甘えることにした。お願いします、と下げた頭を撫でられる。彼のなんでも暴く目には、傘を持たない今日の佐隈が、ちいさな迷い子として映っているのかもしれない。

 ビニル袋を大小あわせて二袋を提げた芥辺のために、佐隈は頼みこむようなかたちで傘を持つ役を任された。事務所に着いたらまずは芥辺にお礼を言って、それから昼食の準備をしよう。駅から数歩も進まないうちに、頭上からちょっと狭い、と声がかかる。こちらへもたげてくる髪の感触に、佐隈は慌てて腕を伸ばし傘を持ちあげつづけた。しばらく歩いて気づいたが、同じ傘に入ると歩調も揃えなくてはろくに進めない。左隣を歩く上司の肩を雨露から避けたくて、こっそり傘を傾ける。居候している身としては、自分のせいで家主ならぬ傘主が濡れてしまうことがひどく嫌だった。一回り以上も背丈の違う二人では、共に歩くだけでやきもきさせられる。女友達と傘に入ることはままあったが、異性とこうして傘を分け合った経験は、佐隈には過去に一度もない。人で賑わう通りに入ると、同じようにいわゆる相合傘をしている若者を見かけた。どの傘のなかも歩みを合わせ、身を寄せ、といった穏やかで信頼ある雰囲気だ。うまくいかないな。佐隈は思わず目を逸らしてしまう。
「今日、午前中はからっとしてましたよね。ここまで降ると思ってなかったんで、傘、助かりました」
「おおかた気圧の谷にでも入ったんだろ」
「へえ、気圧の谷」
「さくまさんは、気象学には興味がない?」
「ですねえ、毎日天気予報は見ますけど、本当にそれくらいです」
「うん、法学部だしね」
「そうですよ、だから気象学はそう触れないです。アクタベさんはこないだ天気の児童図鑑読んでましたよね、好きなんですね」
「……」
「あれ?嫌いですか」
「……いや、」
「アクタベさん?」

 そのまま会話まで途切れてしまった。佐隈が疑問を投げるたびに何だかんだと手厚いサポートを寄越してくれる、そんな常らしからぬ反応が不思議で気が気でない。見えない壁をかきむしる気持ちで芥辺の応えを待った。
「いや、なんだ。実際やってみると、どうなのかなと思って」
「気象学がですか」
 それとも天気予報士がですか。
 気をもんで大真面目な顔で訊いてしまい、後に続く沈黙がやりきれない。傘を分けて居心地が悪いのはお互い様だったようで、明らかに相手の調子がいつもとは違う。傘のなかでは両者の心のうちも相手に移ってしまうのかもしれない。芥辺は傘の露先を指で摘まんで、これが、と囁く。実際やってみると、どうなのかなと思って。雨天であれば誰しも傘くらい差す。つまり、芥辺が示すところの意味は、ひとつの傘に二人で収まっている現状についてだった。

 佐隈は傘の柄を芥辺の肩にかけ、そのまま雨空のもとへ身を投げた。
「あの、事務所までちょっとですし、あとは私走っちゃいますね」
「待て」
にわかに信じがたい速さで芥辺に腕を掴まれる。猫の子のように腕を振り身を離そうとするも離れない。
「いいです、雨ですっきりするかもしれないですもん」
「だめ」
 芥辺から鋭い眼光をねめつけられ怯んだが、肝心の脅し文句は「風邪引きたいの」という、佐隈を気遣うものだった。なんだか拍子抜けしてしまう。違う、さっきのはそうじゃない、そんな意味じゃない。雨さながらに零れて地へ下る男の言葉は、佐隈に伝わるにはやっぱり足りない。雨に打たれたままの彼女は傘のなかへ再び招かれた。普段ならお見通しといったあの最強の目は視線を投げようとせず、ただ佐隈の肩の水滴を荒っぽく拭う。やっぱりこちらを見てはくれない。血も涙もないと謳われるうちの所長が、一体どうしてしまったのか。ようやく佐隈は合点がいった。なるほど、私達はぎくしゃくしていただけなのか。お互い照れていたから、たどたどしかったのか。この人に血も涙もないというのは、どうやら嘘らしい。例え非情であろうとも、芥辺の指はとても暖かいからだ。

「知ってます?同じ傘の下にいるもの同士は内緒話ができるんですよ」
 佐隈は鞄からハンドタオルを出し、手早く顔だけ拭きとった。雨足はまだ強く、立ち止まる自分の横を追い抜いて行く相合傘の通行者がいるのも変わらないが、なぜかもう気にはならない。
「だから、アクタベさん。何だって話してくれて構いませんよ、私には。いいんです」
「それは、本当に?」
もちろんですよ、知らなかったんですか?やっと男の目がこちらの顔を見たのでへらりと笑いかけた。芥辺はわずかな黙考ののち、傘を手に取り佐隈の右手へ小さいほうのビニル袋をそっと手渡した。
「右手、借りるから。背丈に差のある人間が一緒に傘に入る時は、背の高い方が傘を持つとお互い都合が良いと思う」
「あ、それ私も思ってました」
「さっきは悪かった。迷惑だとは思ってない。君は俺が選んだんだし」
「はあ……ありがとうございます」
「あと、左手は預かる」
「え!なんですか」
「さくまさんがあちこち逃げるからだろ。せっかく迎えに行ったのに」
 佐隈の腰の横にあった白い手は、すばやく攫われて芥辺の手元へと移った。冷えた手の甲を男の手で覆うように握られておもはゆい。用が済んでしまうと、また芥辺は歩き始める。このまま帰るまで、手は離さないつもりらしい。雨の街にいる恋人とは違った繋ぎ方だ。ただじっと守るように。佐隈の雨に濡れた手を温めるように。アクタベさんってお父さんみたいですよね、そう茶々を入れると芥辺が分かりやすく顔を歪めるので、つい佐隈の顔が綻んでしまう。この顔はデパートの地下で佐隈も見たことのある顔だった。
「でも、どうして分かったんですか?私が傘持ってだろうって」
「……それはさくまさんはアホだから」
「失礼ですよ!さすがに怒りますよ!」
「さっき君が何を話してもいいって言ったよ」