こんなかんじ。
フン、と偉そうに鼻を鳴らして豪華な衣装を身に纏い歩いていくのはプリマドンナの雪白だ。
お付きの侍女を従えてふんぞり返って舞台のセンターへと進んで行くその姿に
団員達が隠れて眉を顰めてひそひそと彼女の噂話をしているのが見えた。
可愛いし、実力もある。ただ高慢で欲深い彼女は少し嫌われ者だ。
本人は気にしていないようだが。それとも気づいていないのかもしれない。
今夜から初演を迎える舞台『ハンニバル』。
メルヒェンはエリーザベトなどの若いダンサーはバレエが見せどころとなる奴隷の役だった。
自分の腕に衣装の一部である鎖を巻きつけながらメルヒェンは舞台の中央でオペラを歌いだす雪白を眺める。
甲高いその歌声に客席を掃除していた団員が思わず耳を塞いでいた。
高い音が出るのは凄いが、出せればいいってものじゃないとメルヒェンは思う。
世間では素晴らしいと称賛される雪白のオペラのソロが終わると同時に
兵士役のダンサー達が登場し、王を称える歌を歌った。
そこに王様役の青髭が舞台に立ち、低く渋い声でオペラを歌いだした。
勇ましく踊る兵士役のダンサーを見てメルヒェンはぼそりと呟く。
「僕もあの役が良かった」
「それならもっと鍛えるのね」
隣にいたエリーザベトがからかうようにそう言い、メルヒェンは唇を尖らせる。
メルヒェンは中性的な顔立ちをしており、身体付きも女性のように細かった。
勇ましい兵士役よりも淑やかな女性役の方が似合ってしまうのだ。
今までも数多くの女性役を演じてきた。良い役どころを貰っているのだから喜ぶべきだろうか。
女性役を演じる事は嫌いではないが、たまには男らしい役もやってみたいのは男として仕方ないだろう。
イヴェールは青髭の歌声に合わせて指揮棒を振るい、舞台上の動きを見ていたが
ふと舞台に堂々と現れた出演者ではない三人の男の姿を視界に捕え、指揮棒でトントンと音をたててストップをかけた。
「ストップ、ストップ」
舞台裏から入ってきた高そうな燕尾服を身に纏う三人の男へと視線が集まる。
先頭にいるのは皆もよく知っているオペラ座の現支配人であるサヴァンだ。
しかしその後ろに続く若い二人の男は見た事がない人物だった。
稽古がストップした事も気にせずにサヴァンは後ろの二人に微笑みかけて言う。
「新作『ハンニバル』の舞台稽古中です」
団員達を示しながら二人の男にそう説明する支配人。
稽古の邪魔になっている事が分からないのだろうか、とイヴェールは顔を顰めた。
「サヴァン、リハーサル中だ。お静かに願うよ」
「いや、ちょっと待ってくれるかな。皆さんに話しがあるんだ」
その場にいた者たちの視線がサヴァンへと集まる。
団員達をぐるりと見渡し、全員がこちらに集中している事を確認してからサヴァンは話を始めた。
「私の引退の噂はもうお聞きだと思う。それは噂ではなく事実だ。
私は今日限りでこのオペラ座の支配人を引退する」
噂には聞いていたがまさか本当になるとは。
それに本番当日に引退ってどういう事だ、あまりにも無責任すぎやしないか。
どよどよとざわめく団員達を気にせずにサヴァンは後ろに立つ男二人を皆に紹介する。
「そしてこの二人の御兄弟が今後オペラ座の新しい支配人になる。
兄のレオンティウス氏、弟のエレフセウス氏だ。」
人の良さそうな笑みを浮かべるレオンティウスと、愛想笑いも浮かべないエレフセウス。
支配人になるにはあまりに若くないかとメルヒェンはさらに先行きが不安になった。
兄弟が軽く頭を下げると団員達は彼らに歓迎の拍手を送る。
彼の後ろではダンサーの女たちがお金持ちだ、なんてはしゃで拍手していた。
「新しい後援者となる方も謹んでご紹介しよう」
サヴァンがそう言うと、舞台奥から燕尾服を着た一人の青年がやってくる。
整った容姿をしており、見るからに貴族、金持ちといったオーラを醸し出していた。
金色の髪に蒼い瞳をした優しそうなその男を示してサヴァンは言う。
「ブラウ子爵閣下だ」
周りの団員達が子爵に向けてまた拍手を送る。
その中でメルヒェンは驚いたように黄金の瞳を見開いてその青年を見つめ呟いた。
「ブラウ…!」
「知り合い?」
エリーザベトはメルヒェンの呟きを聞きとり、小さな声でそう声をかけた。
優しい微笑みを浮かべて拍手に応えて手を振るブラウの姿に女性陣はほうと甘いため息をついている。
彼女らと同じようにメルヒェンは血の気の無い頬を少しだけ朱に染めながらぽつりぽつりと過去を語った。
「まだムッティが生きていた頃…海辺の別荘で…」
昔を懐かしむようにゆっくりと目を閉じるメルヒェン。
遠い昔でも思い描ける暖かな想い出に微笑み、そっと目を開けて立派な青年になったブラウを見つめる。
「幼い恋人同士だった。子供の遊びだけど」
「あらまぁ、素敵ね」
からかうように言うエリーザベトにメルヒェンは顔を赤くして曖昧に頷いた。
二人だけのやりとりに勿論気づく事もなく、ブラウは舞台の中央に立って全員を見回しながら挨拶をする。
「僕の両親は芸術の味方だ。特にオペラ座のね」
これからオペラ座にとって強力なパトロンになるであろう彼。
そこらにいる男より格好いいし媚を売っといて損はないと雪白はブラウの元へ歩み寄っていった。
下心丸見えの雪白の嬉しそうな笑顔に団員達は心の中で呆れかえる。
紹介しろ!というプリマドンナのどぎつい視線にサヴァンは顔をひきつらせた。
「子爵殿、紹介しましょう。当オペラ座のプリマドンナの雪白です」
雪白は優雅にお辞儀をしながらすっと片手をブラウへと差し出す。
その意図に気付いたブラウは一瞬驚いたような顔をしつつも、その小さな手を取って手の甲に口づけを落とした。
満足そうな笑みを浮かべて雪白は、どうだ!と云わんばかりに自慢げに振りかえってダンサー達を一瞥する。
女性ダンサー達は悔しそうに歯噛みして雪白から視線を逸らした。
「エホン」
青髭がわざとらしく咳払いをした。
それに気付いたサヴァンが慌てて彼を示し、三人に彼を紹介する。
「青髭氏だ」
「宜しくお願い致します」
青髭が頭を下げるとまた団員達が拍手をした。
一通りの挨拶を終えたブラウは再び舞台中を見回しながら言う。
「リハーサル中に失礼しました。今夜の初日の大成功を楽しみにしています」
微笑んでそう言うブラウの言葉を聞いて
一刻も早くリハーサルを再会したいイヴェールが今だと声をあげる。
「では今夜!さあ、先を続けよう!奴隷の踊りから!」
その指示に再び準備を始めるダンサー達。
雪白は上機嫌に立ち位置に戻りながらお付きの侍女たちに嬉しそうに笑った。
「彼ったら私に気があるわ!絶対、絶対そうよ」
はしゃく雪白を横目にブラウはこれから用事でもあるのか
足早にダンサー達の間をすり抜けて舞台上から立ち去ってしまう。
メルヒェンの存在に気付く事なく、ブラウは彼の横を通り過ぎてしまった。
「やっぱり気づかないよね」
「大勢いたから気づかなかっただけよ」
寂しそうなメルヒェンを慰めるようにエリーザベトは彼の頭を撫でた。
劇場の紹介を任されたバレエ教師のソフィがレオンティウスとエレフセウスに舞台の端に避けるように言う。