こんなかんじ。
相手が支配人であろうと若者には容赦がない。
再び始まった演奏に合わせ、奴隷役のダンサー達が舞台へと躍り出た。
音楽に合わせて踊る奴隷役のダンサーを見ながらソフィは新支配人の兄弟に言う。
「バレエもオペラ座の華です」
「ええ、分かります」
レオンティウスが微笑みながら頷いた。
舞台の端を沿うように歩きながら三人はダンサー達の踊りを眺める。
男女共に混じっているが、男性でも奴隷役をしている者は女性のような印象を受ける者が多い。
「あの金髪の娘は光るものを感じます」
「エリーザベト。私の娘ですわ」
レオンティウスの言葉にソフィが微笑んでそう答える。
踊るダンサーの中で一際目立つ、華のある青年をエレフセウスが示した。
「あの男は?宵闇の髪をした…」
「メルヒェン・フォン・ルードヴィング。才能ある将来豊かな青年です。
あの容姿ですから男役も女役も演じる事ができますしね」
群舞に過ぎない奴隷ダンサーの中で他と同じ動きをしているはずなのにどうしても目についてしまう。
華を持つというのも一種の才能だ。
感心したようにエレフセウスがふむ、と頷く横で、レオンティウスがソフィに尋ねた。
「ルードヴィング?ドイツに名ヴァイオリニストが」
「その息子です。母親の元で暮らしていましたが七歳で母親を亡くし、オペラ座の寄宿生に」
「孤児か」
「私は実の息子と思っています。…此処は邪魔になります、あちらへ」
エレフセウスの言葉にソフィは顔を顰めて強くそう言った後、二人を舞台の横へと移動させる。
団員達が歌いながら舞台の中心に集まり、舞台上が役者でひしめき合う中
「裾を踏まないで!」と雪白の金切り声が聞こえてきたが、リハーサルは気にせず続行された。
雪白は新支配人が自分の魅力にくらくらしている姿を見てやろうと彼ら二人に視線を送ったが
レオンティウスとエレフセウスの二人はプリマドンナの彼女は見ておらず
一ダンサーに過ぎないメルヒェンにばかり視線を向けている事に気付き、整った柳眉をぎゅっとつり上がらせた。
曲の終盤の盛り上がりを全員が歌い切り、ポーズが決められる。
数秒全員がそのまま停止したが、すぐに何事も無かったかのように各自がバラバラに次の準備へと移る。
支配人達の思わぬ邪魔にリハーサル時間は押しているのだ。急がねば。
セットが忙しなく片付けられていくのを横目に雪白がサヴァンを呼び寄せた。
「ちょっと、新支配人方にダンスばっかり見せる気!?」
「子爵は大成功だと」
「ええ、ええ、私も支配人達と同様、子爵もダンサーが気に入るように祈っているわ!」
雪白は白い顔を怒りに赤くしながらギロリとメルヒェンを睨んだ。
先程、支配人の兄弟がメルヒェンの事を褒めていたのが気に食わないのだろう。
突然プリマドンナに睨まれたメルヒェンは驚いたように肩を竦めた。
「どうぞご自由にダンサーばかり褒めればいいじゃないの!
私はもう歌わないんだからね!私はもう降りるから!」
癇癪を起した雪白は侍女たちを引きつれてずかずかと舞台から去っていこうとする。
それを見てエレフセウスは焦ったような顔をしてサヴァンに訊ねた。
「どうすれば?」
「ご機嫌をとるんだ」
サヴァンの言葉を聞いて、レオンティウスとエレフセウスは慌てて雪白を追う。
「シニョーラ!世界一の麗しきプリマドンナ!」
「オペラ界に君臨する歌姫!歌の女神!」
「そんなご機嫌取りが通用すると思うの!?」
雪白は不機嫌そうにキィキィと叫んだ。
顔を真っ赤にして怒る雪白を見て、なんとか機嫌を直さねばとレオンティウスは慌てる。
「確か、第三幕に貴女が歌う素晴らしいアリアがあったんじゃないかな」
チラリとイヴェールを見ると、イヴェールはぎょっとしたように目を丸めた。
雪白はレオンティウスの言葉を聞いてぴたりと足を止め
眉間に目一杯皺を寄せ、ぎろりと大きな瞳をギラつかせながら振りかえる。
「ええ、あるわよ。でも私は歌わないんだからね!
三幕の衣装がまだ出来あがっていないの、それにあの帽子だって大嫌い!!」
キーンと響く声に団員達が指で耳を塞いで鼓膜を護る。
周りの人間達は、どうなる事かとハラハラしている者が半分
いつもの事だと半ば呆れながら傍観している者が半分といったところか。
我がまま娘のプリマドンナにエレフセウスはどうすればよいのかと途方に暮れているが
レオンティスはなんとか言葉を探して、雪白のご機嫌とりを必死に続けた。
「我々にだけでも、此処で聴かせては頂けないかな?」
雪白は不機嫌そうなままぐすぐすと泣きだした。まるで駄々をこねる赤ん坊だ。
レオンティウスは困り果て、ちらりと助けを求めるようにイヴェールを見る。
「マエストロさえ良ければ、是非…」
再び練習を中断しろというのか!とイヴェールは顔を思い切り顰めた。
しかし美丈夫のレオンティウスに宥められ持ち上げられた雪白は機嫌を直したらしく
化粧が落ちないように器用に涙を指先で拭いながら、笑顔を浮かべて支配人兄弟を見た。
「支配人がお望みならば。じゃあマエストロ、音楽を」
「…歌姫がお望みならば」
「お望みよ!」
偉そうに命令しやがって、とイヴェールは彼女に聞こえないように舌打ちをする。
雪白は満足そうな笑みを浮かべて舞台の中央へと立った。
イヴェールがしぶしぶと指揮台に戻り、オーケストラ団員達に指示を出して指揮棒を振り始めた。
始まる演奏に合わせ、雪白が甲高い声でオペラを歌いだした。
客席を掃除していた団員達は今度は聞くまいぞ、と耳栓を耳の穴に詰め込んでいた。
する事もなく、全員がプリマドンナの歌声を聴いているその時だった。
ガタリ、と舞台上部から大きな音がしたかと、道具幕が大きな音を立てて舞台の上に落ちてきた。
「キャアア!」
雪白への直撃は免れたものの、それは彼女のすぐ背後に落下し
そのまま雪白は道具幕の下敷きになってしまった。
突然の事故に団員達は顔を真っ蒼にして悲鳴をあげる。
「ファントムだ!」
そうどよめく団員達をよそに、ソフィは黙って舞台裏へ向かい舞台上部を見上げる。
そしてどこからともなくひらひらと枯れ葉のように落ちてきた一枚の封筒を拾った。
団員達はプリマドンナを救出しながら、裏方の名前を呼ぶ。
「ハンスはどうした!」
「俺じゃねぇよ、此処にはさっきまで誰もいなかった!」
舞台上部から裏方のハンスが顔を覗かせてそう叫ぶ。
堕ちた舞台幕をロープで引き上げながら
続けてハンスは団員達に向けて脅すように低く不気味な声で言い放った。
「もし此処に誰か居たんだとしたら…それはゴーストだ」
その言葉に団員達は更に恐れ慄く。
助け出された雪白を見て、レオンティウスは彼女を安心させようと微笑む。
しかし彼の優しい紳士的な笑みは今は引きつり、歪なものだった。
「時々起こる事故だ」
「時々ですって!?ここ数年起こりっぱなしよ、ちっとも止まらない!」
魔女のように恐ろしい顔をしながらヒステリックに彼女は叫ぶ。
「なんとかしてくれなきゃ私は歌わない!引きあげるわよ!」
踵を返し、今度こそ雪白は侍女たちを連れて舞台から出て行ってしまった。