こんなかんじ。
プリマドンナの出演拒否宣言とファントムの出現に団員達は顔色を悪くしていく。
サヴァンは場の空気が悪くなった事を察知し、すぐにでも此処から逃げようと
笑みを浮かべて喋る時間も惜しいとばかりに早口で言った。
「幸運を祈るよ、私はオーストラリアに消える」
そそくさと逃げていくサヴァンの後ろ姿にレオンティウスが頭を抱える。
名高いオペラ座の支配人にならないかという話、上手すぎると思ったんだ!
とんでもない場所を押しつけられてしまったと眩暈を覚える新支配人の兄弟。
収拾のつかなくなった状況を見て、エレフセウスは焦ったようにイヴェールに聞いた。
「あの女は戻ってくるんだよな!?」
イヴェールは、ありえない、とでも言うように肩を竦めてみせる。
ノーに近しいそのジェスチャーにエレフセウスの眉がつり上がったのど同時に
後ろで支配人達の様子を黙って見ていたソフィが口を開いた。
「そう思いますか?ファントムから手紙が」
「お前たち全員とり憑かれてる!」
先程から誰が口を開いても、ゴースト、怪人、ファントムと現実味のない言葉ばかり。
頭がいかれた奴しかいないのかとエレフセウスは怒鳴り声をあげたが
ソフィは怯みもせずに肩を竦めるだけだった。
そして先程拾った封筒の中に入っていた一枚の手紙を取り出し、綴られた文章を読みあげる。
「"ようこそ新支配人のお二人。私のオペラ座に歓迎しよう"」
「私のオペラ座だと?」
高慢な文章にエレフセウスが顔を顰めて繰り返す。
ソフィは黙っていろとでもいうように彼を一瞥してから手紙の続きを読みあげた。
「"五番ボックスは私の席なのでいつも空けておくように。それから給料の支払いも忘れずに"」
「給料!?」
驚いたように声をあげるエレフセウス。
彼の言葉にソフィは手紙から顔をあげて言う。
「前支配人は月二万フラン払っていましたよ」
「月二万フランだぁ!?」
エレフセウスはソフィから手紙を奪い取り、手紙の内容を確認した。
紫色の瞳が不機嫌そうに細められて綺麗に綴られた文字を辿る。
「貴方がたなら子爵の援助でもっと払えるのではないですか」
どこか冷めた瞳をしたソフィがレオンティウスを見つめる。
それを聞いて答えたのはレオンティウスではなく、エレフセウスだった。
不機嫌そうに歯ぎしりをしながらエレフセウスは唸るように言う。
「子爵の援助はオープニングの今夜発表するつもりだったが…。
スターがいなくなった今、公演はキャンセルしなきゃならないだろうが!」
怒りのままにビリビリと手紙を破くエレフセウス。
レオンティウスはなんとかなるまいかと焦ったように周りの人間に訊ねた。
「彼女の代役は?」
「雪白に代役はいない!」
イヴェールが諦めきった顔でやけくそのように叫び頭を抱える。
投げやりなその答えにエレフセウスも声を荒げた。
「満席の客を払い戻ししろっていうのか!」
「メルヒェンに代役を」
ソフィが静かな声でそう言った。
後ろで他人事のようにシューズの紐を結わき直していたメルヒェンが弾かれたように顔をあげる。
全員の視線が自分へと注がれ、メルヒェンは思わずごくりと唾を呑んだ。
怯えたような顔をするメルヒェンを見て、エレフセウスが眉を顰める。
「コーラスにやらせるのか?」
「優れた教師が指導をしています」
ソフィはすぐそう切り返した。
それを聞いてレオンティウスがおどおどしているメルヒェンに声をかける。
「誰が教師なのかな?」
「…名前を知らないんです」
困ったような顔をしてメルヒェンはぼそぼそ答えた。
教師の名前を知らないだなんて、そんな事があるのだろうかと兄弟は顔を顰める。
逃げ出したくてたまらないというメルヒェンの肩をソフィが押した。
メルヒェンを新支配人の前へと立たせ、自信に満ちた顔でソフィが言う。
「歌を聴けば納得するでしょう」
彼女の言葉にレオンティウスとエレフセウスは顔を見合わせた。
どのみち雪白が戻ってくる希望がほとんど無い今、頼れるのはメルヒェンしかいなくなってしまった。
「分かった。歌ってみせてくれ」
「え、で、でも僕は…」
「メル、貴方はテノールの中でも高い声だから大丈夫。
ソプラノの声も出るって知っているのよ、ほら」
渋るメルヒェンの背中を押して、ソフィは彼を舞台の中央へと向かわせる。
不安そうな顔をしたまま舞台のセンターへ立たされたメルヒェンは俯いてしまい
それを見たレオンティウスが優しく声をかけて彼の背を撫でた。
「勇気を出して」
顔色を更に悪くしながらもメルヒェンは小さく頷く。
イヴェールが指揮棒を握ってオーケストラ団員に指示を送った。
「それでは、アリアの最初から」
再び流れ出した優雅な音楽。レオンティウスはそっとメルヒェンの傍から離れた。
兄が隣に下がってくるのを見てエレフセウスは疲れ切った顔で呟く。
「胃に悪い商売だ」
「でも、彼は先程のプリマドンナより可憐で素敵だ」
弟を励ますようにレオンティウスはメルヒェンを示す。
確かに兄の言う通りにメルヒェンの方が雪白より可憐に見えた。
女性にも見える中性的な容姿と、宵闇色の髪に混じる輝く銀色、月のように輝く瞳。
屍体のように肌が白すぎるがそれはメイクでなんとかなるだろう。
何よりも彼は雪白に足りない可憐さだとか儚さがあった。
メルヒェンの歌唱力が雪白に及ばなくても、この美しさならなんとか取り繕えるかもしれない。
細身であるからドレスを着ても違和感も無いだろう。
何とかなるかもしれない、という気持ちでメルヒェンを見た二人だったが
次にメルヒェンが小さく歌いだしたその歌声を聴いて、その考えは打ち消された。
『私を想って、優しく思い出して、さよならを言ったあの時を』
美しい旋律を奏でるその美声に、舞台裏で諦めてだらけていた団員達が戻ってくる。
雪白の歌声よりもずっと儚くて優しいそれに兄弟は唖然と顔を見合わせた。
周りの信じられないとでもいうような顔にメルヒェンは歌いながら不安そうにちらりとソフィを見る。
ソフィは安心させるように微笑を浮かべ、歌を続けるように手で促した。
エリーザベトはメルヒェンの歌声に皆が聴き入っている事に喜び、母親の手を思わず握る。
メルヒェンはほっとしたように身体から力を抜いて
少しずつ緊張が消えてゆくのを感じながら声を大きくしてアリアを歌い続ける。
わっと舞台中に広がるような歌声に団員達が全員うっとりと聴き入っていった。
その晩、オペラ座の舞台には純白のドレスを身に纏ったメルヒェンの姿があった。
舞台の中央でアリアを歌う美しい容姿と声の持ち主に観客はすっかり見入っている。
白い肌は歌を歌っている悦びの高揚からか少し赤らんでおり、それがさらに彼を美しく幻想的に魅せた。
団員達ですら舞台の袖中でじっとメルヒェンのアリアに聴きいり、その姿を見守っている。
『生きている限り私は想い続ける、愛しい貴方の事を!』
新しいプリマドンナの誕生に拍手が沸き上がる中
ボックス席で舞台を観ていたブラウは舞台上に立つメルヒェンの姿を凝視していた。
蒼い瞳が見開かれ、感動と興奮に頬を赤らめて呟く。
「まさか、あれはメルヒェン?」