こんなかんじ。
随分と長い間逢っていなかったが、ブラウははっきりとメルヒェンを覚えていた。
舞台の上に立っているのは間違いなく自分の大切な想い人。
子供ながらに本気で恋をしていた。
離れ離れになって以来、もう出逢う事もないだろうと良い想い出にしておくつもりだったのに
十数年経ち、目の前に現れた彼はあの時よりもさらに美しくなって人を惹きつけている。
ブラウは立ちあがり「ブラボー!」と叫んで拍手をしてから、急いでボックス席から出て行った。
舞台裏へと向かう為に廊下を歩いていく。
(メルは僕を覚えていないかもしれない。
でも僕は覚えている、忘れた事なんて一度だってなかった!)
気分が急いて無意識のうちに進める歩みが早くなる。
ブラウはときめきと喜びに口角があがるのを自覚しながら舞台裏へと急いだ。
メルヒェンのアリアが歌い終わると観客はスタンディングオベーションの嵐。
「お見事!素晴らしい!」
賛美の言葉と一緒に綺麗な花が舞台の上に投げられ、メルヒェンは嬉しそうに笑った。
舞台袖を見れば団員達も笑顔を浮かべて拍手をしている。
メルヒェンは観客を見渡し、微笑んだまま深く深く頭を下げたのだった。
緞帳が下ろされると、上演の第背甲に団員達はわっと声をあげて喜びに抱きあう。
今夜の主役を称えようとエリーザベトはメルヒェンを探したが、その姿が見当たらない。
親友を探す為にエリーザベトはそっとその場から離れ、オペラ座の中を歩き始めた。
古い建物であるオペラ座は団員も知らない通路が山ほどあると言われている。
きっとどこかにメルヒェンは一人でいるのだろう。
メルヒェンはオペラ座の中にある冷たい石の壁と床に覆われた小さな一室にいた。
薄暗い部屋の真ん中に座りこみ、目の前に幾つもあるお祈り用の蝋燭に火を灯す。
すると燭台の横にあった亡くなった母の写真が飾られた写真立てがうっすらと浮かび上がるように視界に入った。
その後ろには天使の絵が石の壁に描かれており、彼を幻想的な空間へと誘う。
メルヒェンはただぼんやりと目の前に浮かぶ優しい母親の頬笑みを見つめた。
『素晴らしい、見事だったよ』
どこからともなく聴こえてきた甘く響く男の歌声にメルヒェンは顔をあげて宙を見る。
近くまで歩いてきていたエリーザベトは、人の気配に気づいて彼の名を呼んだ。
「メルヒェン?」
『メルヒェン…』
それと重なるように聴こえた甘美な声にメルヒェンは視線を彷徨わせる。
エリーザベトは小さな部屋の中にメルヒェンの姿を見つけると
安心したように胸を撫でおろしてもう一度彼の名前を呼んだ。
「メルヒェン」
優しい声をかけられてメルヒェンはゆっくりと振りかえる。
親友の姿にメルヒェンは微笑み
エリーザベトも同じように笑みを浮かべ返してメルヒェンの隣に座りこんだ。
「一体何処へ行ったのかと思ったわ。今日のメルの舞台完璧だった!
…だからこそ私、貴方の秘密を知りたいの。ねぇ、メルの先生ってどなたなの?」
メルヒェンが歌唱指導を受けている先生の正体はエリーザベトも知らなかった。
多くを語らないメルヒェンに強請るように聞けば
メルヒェンは少し考えるように視線を彷徨わせた後
内緒話をするように彼女にだけ聞こえるように小さな声で話しだした。
「寄宿生活を初めて、此処でムッティの為に蝋燭を灯すと…どこからともなく声が聞こえるんだ。
その人はいつも僕の夢の中にいて、僕の事を見てくれている。
ムッティは死の床で、天使が僕を守ってくれると言っていた。音楽の天使が、僕を」
微笑みながらメルヒェンはあまりにも非現実的な事を言う。
それを聞いたエリーザベトは驚いたような顔をした後
気遣うようにメルヒェンの肩に触れ恐る恐る訊ねた。
「…メル、本気で信じているの?その、それが…お母さんが遣わしてくれた天使だって」
「それ以外に一体誰がいるっていうんだ?」
心底不思議そうな顔をしてメルヒェンはそう訊き返す。
音楽の天使の存在を信じきっている親友にエリーザベトは口籠った。
メルヒェンは昔を想いだすように瞼を閉じ、まるで何かにとり憑かれたかのように話す。
「いつだったかムッティは僕に音楽の天使の話をしてくれた。
幼かった僕は、天使が僕のもとに現れるのを待ち侘びた。
今の僕は、歌を歌えば音楽の天使の存在を感じられる。
いつもどこかすぐ近くにいる事が分かる…この部屋のどこかに隠れてるんだ。
この部屋で彼は優しく僕を呼んで、いつも僕の傍にいてくれる。
音楽の天使は誰の目にも見えない天才なのさ…!」
うっとりと恍惚の表情を浮かべ、メルヒェンはふらりと立ちあがって天井を見上げる。
天使の姿が描かれた天井を夢見心地に眺めるメルヒェンはどこかへ消えてしまいそうで
エリーザベトは慌てたように立ちあがって彼の両手を握った。
心配そうな顔でメルヒェンの顔を覗きこみ、彼を現実へ引き戻そうとする。
「メルは夢を見てる。素敵だけど現実にはありえないわ。
そんな謎めいた話はやめましょう、いつもの貴方らしくない」
「音楽の天使が僕を導いて守ってくれる…」
彼女の言葉は聞こえていないのか、どこか夢現なメルヒェンを見て
エリーザベトはこの部屋から離れようとそっと彼の手を引いた。
メルヒェンは虚ろな瞳のまま呟く。
「今でも僕の傍にいる」
「手が冷たい。顔も血の気が悪いわ」
先程までは歌える幸福の高揚に赤らんでいた肌は
今はいつも以上に蒼白になり、手も氷のように冷たくなっていた。
エリーザベトはメルヒェンの頬を優しく撫でる。
疲れきった顔をしているメルヒェンは震えながら蒼い唇を震わせて言った。
「…怖い」
「大丈夫、怖がる事はないわ。私がいるもの。ほら、皆が待っているから行きましょう?」
ふらふらとした足取りのまま、メルヒェンはエリーザベトに連れられてその部屋を出た。
エリーザベトはメルヒェンをプリマドンナ専用の楽屋まで連れていく。
そこで待っていた母親のソフィにメルヒェンを預け
エリーザベトも支度をする為に自分の楽屋へと戻っていった。
一人で使用するには広すぎたプリマドンナの楽屋は
今はメルヒェンへと贈られた花束がたくさん飾られており、すっかり狭く感じてしまう。
楽屋の外にはメルヒェンに花やプレゼントを直接渡そうとする客たちで溢れ返り
ソフィは彼らを押しのけ、扉を締め切った。
そしてぼんやりと花束の山を眺めるメルヒェンに笑顔を浮かべながら成功を讃えた。
「おめでとう、大成功だったわ。…あの方も喜んでる」
そう言ってソフィはテーブルの上に置いてあった一輪の深紅の薔薇を彼へ渡した。
薔薇の茎には黒いリボンが蝶々結びで結ばれている。
ソフィがそっと楽屋から出て行くのも気づかず、メルヒェンはその薔薇を見つめていた。
一方楽屋の外では新支配人の兄弟が上機嫌に互いの成功を讃えあっていた。
大成功を呼んでくれた新しいプリマドンナを褒め称えようと楽屋へと向かう時
人ごみをすり抜けてやってくるパトロンを見つけ、エレフセウスは声をかける。
「子爵!あいつは掘り出し物だな!」
メルヒェンの楽屋へ入ろうとしたブラウは呼ばれて振りかえった。