こんなかんじ。
レオンティウスは彼がプリマドンナの楽屋へ入ろうとしているのを見て
パトロンに新しいプリマドンナは自分たちが紹介すべきだろうと思い、弟に続いて声をかける。
「彼を紹介しようか」
「悪いが、彼には僕一人だけで逢いたい」
ブラウは申し訳なさそうな顔をして、彼らの申し出を断った。
そしてエレフセウスがメルヒェンへ送ろうと持っていた花束を素早く奪って楽屋へと入っていく。
花束を奪われたエレフセウスが唖然とそれを見送るのを見て
レオンティウスは肩を竦めて弟に言った。
「知り合いらしい」
「成程な」
納得したように弟は頷く。
パトロンの機嫌を損なわぬよう、自分たちのプリマドンナへの挨拶は後日にしよう。
得意先の客や団員達もオペラ座から帰っていく中、二人もその場を後にした。
ブラウはそっと楽屋の扉を開けて中の様子を窺い見る。
楽屋の中には一枚の全身を映しだせる大きな鏡を横にして椅子に座り
一輪の薔薇をぼんやりと見つめているメルヒェンの姿があった。
ブラウはその様子を見て、微笑みながら小さく言った。
「小さなメルは考えた」
突然聞こえた優しい声にメルヒェンはぴくりと反応して振り向く。
メルヒェンは扉をゆっくりと閉める幼馴染の姿を見て、ふわりと微笑んだ。
ブラウは花束を手に横長の楽屋を歩きながら言葉を続ける。
「僕が好きなのはお人形?それとも妖精?靴?」
「ブラウ…」
「なぞなぞ?ドレス?」
名前を呼ばれ、ブラウは微笑を浮かべながら花束を近くにあった空いた椅子の上に置く。
メルヒェンは幼馴染の男を見つめながら彼に合わせて言葉を紡いだ。
「ピクニック?」
「チョコレート?」
「…ムッティのヴァイオリン」
「それを聴きながら北欧伝説の本を」
ブラウはメルヒェンの座る椅子の横に両膝をつく。
メルヒェンは彼の顔を見つめながら笑顔を浮かべ、彼の為に小さく歌った。
『彼は言った。何より好きなのはベッドに横たわり音楽の天使が頭の中で歌を歌ってくれる時だと』
目の前にあるのは焦がれてならなかった幼い頃の恋人の月のような微笑み。
静かに部屋に響く歌声を聴いて、ブラウは目の前のメルヒェンの身体を抱きしめる。
「今夜の君は天使だった」
「ありがとう」
照れくさいな、と苦笑しながらもメルヒェンは嬉しそうに彼の肩に顔を埋めた。
お互いの存在をしっかりと確かめ合った後、二人はそっと身体を離す。
メルヒェンは目の前にある蒼い瞳をじっと見つめながら言った。
「ムッティが天国に行ったら音楽の天使を送ると言っていた。
ムッティが死んだ後、音楽の天使は本当に僕のもとへ来てくれたんだよ」
「ああ、分かるよ。…それより食事に」
ブラウはメルヒェンの話に曖昧な返事をしてから立ちあがった。
今はとにかくメルヒェンと離れていただけの時間を取り戻したかった。
食事に誘われたメルヒェンは焦ったような顔をして、ブラウの手を握って彼を引き止める。
「駄目だ。音楽の天使は厳しい」
「すぐに連れ戻すから大丈夫さ」
音楽の天使の存在など信じていないブラウは、ふざけたようにそう言って踵を返す。
楽屋から出て行ってしまうブラウを見てメルヒェンは立ちあがって彼を止めた。
「ブラウ、駄目だ…!」
「馬車を呼ぶから着替えを。二分だ」
「待って、ブラウ…!」
メルヒェンの話を聞かず、ブラウは楽屋から出て行ってしまった。
ガチャリと音をたてて扉が閉められる。
閉場して随分経ったオペラ座からは人の気配が消え、ブラウも去り楽屋の周りには人の気配が無くなった。
するとそこに黒い影が現れる。黒い手袋をしたその手が
鍵穴に差し込まれたままの鍵を握り、外側からメルヒェンのいる楽屋の鍵を静かに閉める。
楽屋の鍵を持ち去っていくその影を物陰からソフィはじっと見つめていた。
しかし彼女はその影を止める事もせず、何も言わずにその場から去っていってしまった。
オペラ座の灯りが次々に消えてゆき、二人の支配人も家路へとつく。
メルヒェンが仕方なく言われた通りにドレスを脱いで、漆黒のローブに腕を通していると
扉も窓も閉められているはずの部屋に、突然生温かい風が吹き蝋燭の火を消した。
青白い月明かりだけが差し込む薄暗くなった楽屋で、メルヒェンは周りを見回す。
あまりの静けさに恐怖を覚えたメルヒェンは慌てて扉へと向かった。
扉のノブに手をかけようとしたその時、部屋に怒りの籠った男の声が響いた。
『生意気で低能な男め!社交界に傅く奴隷、我が身の栄華に浮かれるがいい!』
聞こえてきた声にメルヒェンはぎくりと固まり、息を呑む。
テノール程のよく響く声を聞きながら、メルヒェンはゆっくりと振りかえって楽屋をもう一度見回す。
『無知な愚か者!怖いもの知らずの求婚者、私の勝利を奪う気なのか!』
メルヒェンは声の持ち主を探すかのように視線を彷徨わせ、震えながら恐る恐る口を開く。
「天使様、聞こえます。もっと話して、僕の傍を離れずお導き下さい。
天使様、誘惑に迷う僕を許して下さい…どうか姿を現して、僕のマスター」
置いてかれる事を恐れる子供のようにメルヒェンは怯えた顔をしながら
楽屋の中に響き渡る甘く艶やかで激しい声に哀願する。
それを聞いた声の持ち主は、メルヒェンを嘲笑うように言った。
『口の上手いメルヒェン、私を知るがいい。
私がどうして暗闇を望むのかきっと分かる。
鏡に映る自分の顔を見てみるといい、私はその鏡の中に居る!』
メルヒェンは恐る恐る振り返り、自分の後ろにある大きな鏡を見つめる。
大きな姿見の向こう側に、仮面をつけた男の姿が浮かび上がった。
背中ほどまで伸ばされた金色の髪は一つに結わかれ、深紅のリボンでまとめられている。
顔の半分は白い仮面で覆われ、もう半分はぞっとする程美しい顔があった。
狂気と衝動を宿す碧い瞳が仮面の奥でギラリと光る。
漆黒の燕尾服と漆黒のマントを身に纏った長身で細身の男。
彼の纏う妖しい雰囲気にメルヒェンは無意識にこくりと唾を呑みこみ、ゆっくりと足を踏み出す。
まるで操られているかのように鏡へ近づくメルヒェンの表情は恍惚としたものだった。
男は催眠術をかけるかのように甘く低い歌声でメルヒェンの魂を揺さぶる。
『私が君を導く音楽の天使だ』
楽屋へと戻ってきたブラウは扉に鍵がかけられているのに気付き、強くノブを引いた。
内側からは鍵をかけられないはずのそこに鍵がかかっているという事はメルヒェンはもう出たのだろうか。
待っていてといったはずなのに、と中の気配を探ると、メルヒェンとは別の男の声が聞こえてくる。
ブラウは扉を開けようと何度もノブを引きながら声をあげた。
「誰だ!?メルヒェン!」
メルヒェンのもとに誰か別の男がいる、とブラウは顔から血の気を引かせ愛しい人の名を呼ぶ。
しかしメルヒェンにはブラウの声は聞こえていなかった。
ふらふらと近づいてくるメルヒェンに
仮面をつけた男は微笑を浮かべたままゆっくりと彼に手を差し出す。
『私のところへおいで、音楽の天使』
メルヒェンの白い手がそっと持ちあがり、黒い革手袋をしたその手に伸ばされる。
男はにやりと口角を吊り上げ、逃がすまいとその手をがしっと捕えた。