こんなかんじ。
隠し扉を見つけたその先に続く薄暗い闇へ、勇気を振り絞ってエリーザベトは足を踏み入れる。
怯えながらも、メルヒェンはきっとこの先に居るのだと確信し、必死に足を前へと動かす。
その時、彼女の足元をがさがさっと何かが通り過ぎた。
「きゃあ!」
悲鳴をあげてとびのき、咄嗟に足元を見るとそこには数匹のドブネズミの姿。
その正体に安堵の息をついてからエリーザベトはさらに先へ足を進めようとした。
その時、がしりと突然背後から何者かに肩を掴まれる。
息を呑んで振りかえると、そこには母親のソフィが立っていた。
彼女は眉を吊り上げ、まくしたてるように娘に聞く。
「此処で何をしているの」
「メ、メルを探していて…」
「此処に来てはいけません。戻りますよ」
腕を引かれて、エリーザベトは半ば無理矢理ダンサーの寄宿舎まで連れ戻されてしまった。
メルヒェンの行方を尋ねたくてたまらないのに
母があまりにも険しい顔をしている為、エリーザベトは何も言えない。
寄宿舎に戻ると、裏方のハンスがロープを片手にダンサー達に話を聞かせていた。
毛布を羽織って呻き声をあげながらハンスは言う。
「奴のお綺麗な顔に騙されちゃあ駄目だ。
仮面の下の肌は黄色い羊皮紙のよう、鼻が無くそこには暗い穴が空いてやがる。
いつも用心しているこった、さもないと魔法のロープが首を絞めるぞ!」
そう言って輪っかになったロープを寄宿生へと見せつける。
その話を怖がって飛び上がる者もいれば、馬鹿らしいとクスクス笑う者もいた。
エリーザベトは皆を怖がらせるようなハンスの態度に眉を顰める。
すると、隣にいたソフィがハンスのもとまで早足で歩いてゆき
顔を怒りに歪め、ギロリと相手を睨みながら低い声で忠告をした。
「口の軽い者は分別を弁えるべきだったと後から悔やむ事になりますよ。
ハンス、口を慎みなさい!」
バチンとソフィがハンスの頬に張り手を喰らわせる。
痛みに転がるハンスからロープを奪い取り、ソフィはそれをハンスの首に引っ掛けた。
そしてロープを勢いよく引くと締まりそうになるそれに、ハンスは慌てて首と縄の間に自分の手をいれる。
きゅうと締まったそれは手をいれたおかげでなんとか首が締まらずに済んだ。
ソフィは彼にもう一度忠告をする。
「いつもその手で首を守っている事ですね」
その恐ろしい声と忠告に、ハンスと寄宿生達はごくりと息を呑んだ。
シンバルを持った猿の玩具が、メロディに合わせてシンバルを鳴らす。
仮面舞踏会(マスカレード)のオルゴールの音に目を覚ましたメルヒェンは
ゆっくりと起き上がって周りを見回した。見た事のない場所だ。
ベッドから降りて、ふらふらと覚束ない足取りでベッドの置かれる小部屋から出る。
(夢を見ていた気分だ…ボートに男が、立っていて)
パイプオルガンの前で楽譜(スコア)を書いていたイドルフリートは
メルヒェンの気配に顔をあげて振りかえった。
メルヒェンはイドルフリートの姿を見て、夢では無かったのか、とぼんやりと考える。
白い仮面をつけた男はこちらに近づいてくるメルヒェンをじっと見つめた。
(仮面の下には一体どんな顔が…)
仮面で隠していない部分は、整っていて美しい顔をしている男。
何故顔を隠したりしているのだろうか。
メルヒェンはイドルフリートのもとへ歩み寄り
愛おしむようにゆっくりと彼の頬を両手で包みこんだ。
ひやりとした、それでも体温のあるメルヒェンのぬくもりに彼は目を細め、その手に頬をすり寄せる。
メルヒェンは彼の存在を確かめるように優しく顔に手を這わせ
最後に白い仮面へと手を伸ばし、それを素早く取り外した。
「っ!」
その途端、イドルフリートが腕を振り上げメルヒェンを振り払った。
ガタァンと大きな音をたてながらメルヒェンは壁に身体をぶつけ、しりもちをつく。
イドルフリートは片手で仮面をつけていた顔の右半分を隠しながら怒鳴り声をあげた。
「何をする!!」
憎しみの炎が燃え上がる瞳孔の開いた碧い瞳。
怒りに頬をひきつらせ、イドルフリートは取り乱してメルヒェンに吼えた。
「この顔が見たいのか!呪われろ!詮索好きのパンドラめ!」
癇癪を起したイドルフリートは周りにあった本を蹴散らし、手で薙ぎ払う。
バサバサと積み上げられた楽譜や本が雪崩のように崩れ、ガラスの割れる音もした。
メルヒェンはイドルフリートの豹変ぶりと、一瞬だが仮面の下に見えたものに恐怖を覚え
涙を浮かべながらガタガタと震え、愕然とファントムを見上げている。
「貴様にもう自由はない!!」
叫ばれ、メルヒェンはびくりと肩を跳ね上げて彼から逃げるように座りこんだまま後ずさる。
黄金の瞳に怯えを宿して蒼白な顔でこちらを見つめるメルヒェンに気づいたイドルフリートは
一瞬顔を怒りと悲しみに歪ませ、数歩後ずさってメルヒェンから離れた。
背を向けて肩で息をしながら深い呼吸を繰り返し、怒りを鎮めようとする。
そして崩れ落ちるようにその場にしゃがみこみ、両手で己の顔を覆いながら自嘲気味に笑った。
「思った以上に醜い私のこの顔を、目を逸らさずに見る勇気が君にあるかね?
私の事を想うような勇気が君にあるかい?…醜いだろう、まるで化け物だ」
メルヒェンはイドルフリートの寂しい声音を、涙を浮かべながら呆然と聞いている。
背を向けられ、両手で顔を覆っているせいで彼の表情は見えないが
きっとイドリフリートは泣いているんだろうとメルヒェンは思った。
大きいと思った背中は縮こまりとても小さく感じる。
イドルフリートは顔を片手で隠したまま振りかえり、メルヒェンへにじり寄った。
「けれどその化け物は秘かに天国を夢見ている。
メルヒェン、恐怖は愛に変わるという事をきっと君は学べるだろう。
化け物の後ろには人間が…愛に焦がれる人間がいるという事に気付ける…」
哀願するように美しい片目で見つめられ、メルヒェンは息を呑む。
今にも泣きだしそうな震える声と、僅かに見えた悲痛な彼の表情。
メルヒェンはゆっくりと手に持っていた彼の仮面を差し出した。
イドルフリートは静かにそれを受け取って、ゆっくりと自分の顔の右半分へと嵌める。
「ご、めんな…さい」
メルヒェンは小さく掠れた声で謝罪した。
恐ろしくて目の前にあるイドルフリートの顔を見る事ができない。
彼の顔が醜かった事よりも、責めるような瞳で見つめられる事が怖かった。
イドルフリートはメルヒェンの謝罪を聞いて自嘲の笑みを再び浮かべてから立ちあがる。
「そろそろ腹が空いただろう?食事を用意してあるから、食べよう」
そう言って手を差し出すと、メルヒェンは一瞬躊躇うような仕草を見せたものの
ゆっくりと彼の手をとって立ちあがった。
完全に嫌われたわけではない、とイドルフリートは心の中で安堵の息をつく。
案内された椅子にメルヒェンはゆっくりと腰をおろした。
白いテーブルクロスのかけられた机の上には、豪華な料理が並んでいる。
「わぁ…」
あまりの豪華さにメルヒェンは思わず感嘆の声をあげた。
瞳をきらきら輝かせるものの、なかなか食事に手をつけようとしない。
それを見て向かい側に座るイドルフリートは言った。