こんなかんじ2
黒い髪をポニーテールに結んで、質素なズボンとシャツの衣装を着ている小姓役のメルヒェン
その隣には豪華なドレスを着こみ、これまた奇抜なメイクをしている雪白が座っていた。
「あんたは黙って演じてればいいんだからね、分かった!?」
雪白に睨まれメルヒェンは黙ったままこくこく頷く。
もとより雪白はオペラ座の顔。
本来ならただのダンサーだったメルヒェンが
こうして小姓役として彼女の隣にいる事すら数ヶ月前では考えられない事だった。
一度プリマドンナとして舞台に立った事により人気の出たメルヒェンであるが
立場的にはまだまだ雪白の下なのだ。
メルヒェンは一刻も早くこの状況から抜け出したいと
普段から悪い顔色をさらに悪くしながらきりきりと痛む胃を彼女に見えぬように擦った。
開演の時間になり合図を送られた指揮者のイヴェールがタクトを振るう。
それと同時に陽気な旋律の演奏が始まった。
緞帳があがり、貴族役の団員達が扇子を片手に舞台の端でオペラを歌う。
『奥方様はあの若者にメロメロ、殿様に知れたらたちまち物笑いの種。
殿様にバレたら大事だ、恥を知れ、恥を恥を!』
一方舞台袖では雪白の侍女が喉に吹きかける薬の入ったスプレーを机の上に用意していた。
しかしそれは侍女がその場から離れた途端に
黒い手袋をした何者かの手が伸びてよく似た物とすり替えられる。
裏方のハンスはそれを照明器具の吊るされた舞台上部からそれを見ていた。
ハンスの視線はその人影を追っていく。
『不実な妻は地獄へ真っ逆さま、恥を知れ、恥を恥を!』
天蓋のカーテンが開き、雪白が扇子を広げて自分の口元を隠す。
メルヒェンは彼女の腰に手を回してキスをしているふりをした。
カーテンが開き、観客に逢瀬を見られている事に気づいた小姓は慌てて伯爵夫人から離れた。
伯爵夫人は小姓にメイドの服を着こませて歌った。
『セラフィーモ、変装したのね?待って、誰か来たわ』
『優しい妻よ、お前の愛しい夫だよ』
ノックの音を聞いて雪白がメルヒェンから離れる。
扉が開かれ、奇抜なメイクをした伯爵役の青髭が舞台へとやってきた。
小姓はベッドの上に乗り、ベッドメイクをしているメイドの真似事をする。
『妻よ、私は国の務めで英国へ発たねばならぬ。お前に新しいメイドをつけておくよ』
そう言って伯爵はメイドの尻をセクハラ紛いに撫で回す。
その正体が小姓であるとも知らずに浮かれる伯爵に客がどっと笑った。
小姓はじろっと伯爵を睨んでからすぐにまたメイドのふりをする。
『メイドを連れていきたい』
伯爵の言葉に笑う観客。
伯爵夫人はそれを聞いて、扇子で口元を隠しながら小さな声で観客に言う。
『これで厄介払いだわ!』
さらに笑い声をあげる観客達。
そうしている間にも謎の人影は舞台の上をひらりと移動して行き、ハンスはその後を追っていた。
舞台袖にいたソフィは微かに聞こえた物音に視線を上に移し、そこに見えた黒い影に目を細める。
『セラフィーモ、もう大丈夫。
おしゃべりしないで、何も言わず、主人のいない間にキスして』
メルヒェンはメイド服を脱ぎ捨てて、雪白が扇子で隠す口元に再びキスをするふりをした。
そこを扉の影から伯爵役の青髭が渋い顔で覗いているのに観客がまたどっと笑う。
イドルフリートは観客席の上にあるシャンデリアを作動させる部屋から姿を現し
天井近くにある細い渡り廊下から冷たい目で黙って舞台を見下ろしていた。
華やかな舞台の上で歌っているのは愛しいメルヒェンではなく小娘の雪白。
そのうえ、五番ボックス席には世界で一番気に食わない男ブラウが座っているではないか。
『なんて間抜けな亭主!もっと良い夫を探すべきだったわ』
『知らぬが仏の亭主。もし知ったら飛んで帰ってくる』
メルヒェン以外の団員達が舞台の上で高らかに歌う。
そこに突然怒りに満ちた低い声がオペラ座の会場中に響き渡った。
『指示を忘れたか。ボックス席五番を空けておくように、と』
突如聞こえた声に会場中がざわざわと騒ぎだす。
全員が声の出所を探して視線を彷徨わせる中
ファントムの影を追っていたハンスは客席の上の渡り廊下にイドルフリートの姿があるのを見つけていた。
「ファントムだ…!」
顔を真っ蒼にさせた団員達が口々に呟く中
舞台上のメルヒェンも視線を彷徨わせながらぽつりと彼の名を呼ぶ。
「イドルフリート…?」
「あんたは喋らない役でしょ、お黙りヒキガエル!」
雪白はメルヒェンが呟いただけでも不機嫌そうに彼に怒鳴りつけた。
肉食獣に睨まれた草食動物のようにメルヒェンは身を竦ませて慌てて口を噤む。
どよつく観客席に笑顔を振りまいた後、雪白は幕の中へと一度戻っていった。
上から舞台を見ていたイドルフリートは彼女の先程の言葉に眉を吊り上げている。
「メルがヒキガエルだと?まさか、それは自分の事だろう?」
イドルフリートは静かに渡り廊下から姿を消した。
舞台袖に戻った雪白はスプレーに入った薬を喉へと吹きかけ
あ、あ、と声が出るかしっかりと確認してから再び舞台の上へ堂々と戻ってくる。
「マエストロ、続きを」
イヴェールはそれを聞いて、先程中断されたところから演奏を仕切り直す。
再び流れ出した音楽に合わせて雪白は歌いだした。
『セラフィーモ、もう大丈夫。何も言わず主人のいないあ゛ー!』
突然、雪白の声がまるでヒキガエルのように野太くなった。
すぐ傍にいたメルヒェンや舞台袖にいる団員達は目を見開く。
観客たちもあまりのハプニングにあんぐりと口を開いたが
次の瞬間にはどっと彼女の滑稽さに大笑いをし出した。
イヴェールは慌ててもう一度同じ場所から演奏を仕切り直し指揮棒を振るう。
雪白は青ざめた顔をしながらもう一度歌った。
『なんて間抜けな亭主!ララララ、ラ、あ゛ー、あ゛ー!!』
ガラガラの声にゲラゲラ笑う観客達。挙句の果てには団員まで笑い出している。
雪白はパニックに陥り、涙を浮かべながら「声が出ない!」と叫びだした。
支配人はそれを見て慌ててボックス席から立ち上がり舞台へと向かった。
エレフセウスは裏方の人間に叫ぶ。
「幕を引け、早く!」
「会場の皆様、お詫び申し上げます!この続きは…えーと、十分後にお聞かせします」
緞帳の前でレオンティウスが引きつった笑みを浮かべながらそう言った。
そして素早く幕の中に頭を突っ込み、幕の中で大慌てしている団員達の中で
呆然と立ちつくしているメルヒェンの手を素早く掴んで彼を幕の前へと引きずり出す。
突然観客の前に立たされて目を白黒させるメルヒェンも構わず
レオンティウスは彼を示しながら言った。
「伯爵夫人役はメルヒェンに交代!」
「え!?」
驚いて目を丸めるメルヒェンをよそに
観客たちは注目の新プリマドンナに大喜びをして拍手をする。
「急いで支度をしておいで!…会場の皆さまはお席でお待ち下さい」
メルヒェンはすぐ幕中に引っ込められた。
こうなる事を見越していたかのように待機していたソフィに手を握られ、楽屋へとずんずん連行される。
完全に進行のストップしてしまった芝居とメルヒェンの不安そうな顔に