こんなかんじ2
五番ボックスに座っていたブラウは思わず立ちあがって心配そうに成り行きを見守っていたが
なんとか大丈夫そうなので仕方なく席に座り直した。
「新プリマドンナの準備が終わるまで…、その間第三幕からのバレエをお楽しみ下さい」
「はっ!?」
レオンティウスの言葉にオーケストラピットにいたイヴェールは驚きの声をあげて支配人を見上げる。
エレフセウスは引きつった顔のまま指揮者の彼を急かした。
「マエストロ、は、早くバレエの音楽を…!」
それを受けてイヴェールは慌てて楽譜を捲り出す。
「百八…違う百七十八ページからだ…!開いて!」
イヴェールの指示にオーケストラ団員達も慌ててページを捲っていく。
舞台裏では表から聞こえた突然の演目内容の変更に団員達が大慌てで準備をしていた。
衣装を慌てて脱ぐ者、大道具を移動させる者、舞台幕も変えなければならない。
よりによって背景を変えようと舞台幕を開けて舞台裏が完全に見えている状態の時に
バレエの優雅な演奏が始まってしまった。
準備が全くできていないのに舞台の幕があげられてしまう。
舞台の上で大慌てしている団員達を見て、客がゲラゲラとまた笑いだした。
セットを用意していた裏方は舞台は一の最中に幕が開いた事に焦り慌てて舞台袖へ戻り
ダンサーは衣装を着ながら転がるように舞台へやってきて慌てて踊り出す。
なんとかバレエ背景の舞台幕を下ろし、三幕の出演者も全員無事舞台上に集まった。
数分してやっと途中からではあるが舞台は正常通りとなった。
しかしその彼らの頭上で、確実の悲劇の幕は開かれようとしていた。
優雅に踊るバレエダンサー達の真上で、ハンスはファントムの姿を探していた。
きょろきょろと周りを見回すハンスの背後から、低いうっそりとした声が響く。
「誰をお探しかな?」
「!?」
突如背後に現れたファントムにハンスは顔を引き攣らせた。
いざファントムを目の前にして恐怖したのか、ハンスは慌てて彼から逃げ出し
イドルフリートは薄ら笑いを浮かべたまま素早くハンスを追いかけた。
足場の悪い揺れる細い橋の上では思うようには走れない。
しかしイドルフリートはその上を軽業師のように
ひらりと次から次へと足場を変えながら移動し、逃げ惑うハンスをどんどん追い詰めてゆく。
そしてハンスのいる足場と同じ場所に降り立ち
両脇の手すりのロープを握り足を使って左右に足場を大きく揺らした。
よろめき足を滑らせて転んだハンスの背後に一瞬で移動し、手にしていたロープを素早く相手の首に引っ掛ける。
過ぎた恐怖に声も出ないハンスの耳元で、イドルフリートが悪魔のように囁いた。
「余計な詮索をするからだよ、低能」
狂気と衝動に染まった瞳を細め、イドルフリートは一気に縄を絞めあげた。
抵抗しようとするハンスの手を足で押さえつけてギリギリと男の首を絞める。
ハンスの目が白目を剥きかけるところで
イドルフリートは縄を近くの棒にくくりつけその身体を蹴飛ばして落とした。
突如上から落ちてきた首を吊ったその屍体に会場中が悲鳴をあげた。
舞台の上にいたダンサー達は散らばるようにハンスの屍体の傍から逃げてゆく。
ブラウは咄嗟に立ちあがり、ボックス席からひらりと飛び降りて舞台裏へと駆けていった。
混乱する団員達を掻き分けながら通路を進むと
同じように奥からメルヒェンがブラウを探しながら走ってくる。
恋人が無事である事にブラウは安堵の息をつきながらメルヒェンのもとへ駆け寄った。
「メル、無事かい」
「ブラウ、逃げよう!」
深紅のローブの上に黒いマントを羽織ったメルヒェンは
真っ蒼な顔をしたままブラウの返事も聞かずに踵を返して足早に歩きだす。
彼の片手には漆黒のリボンが結ばれたイドルフリートから贈られた一輪の薔薇が握られている。
先程楽屋に連れられた時に届けられていたものだ。
メルヒェンは全身から血の気を引かせ、恐怖に唇を震わせ怯えきった顔のまま
オペラ座の屋上へと続く螺旋階段を駆け上がっていく。
ブラウはその後を追いながら、強張っているその背に声をかけた。
「どうして此処へ。皆が君を探す、早く戻ろう」
「イドルフリートはブラウを殺す気だ…っ」
メルヒェンはブラウの言葉を受けて掠れた声で早口にそう口走る。
その言葉と聞き慣れぬ名前にブラウは眉を寄せた。
「イドルフリート?ファントムの名前かい?
ファントムが僕を殺すだなんて、まさかそんな」
「あの衝動の瞳は千人だって殺す力を持っている!イドはまた誰かを殺してしまう…!」
「メル、ファントムなんていない!」
メルヒェンを落ちつかせようとブラウはそう言うが
彼の声など聞こえていないようにメルヒェンは震える唇で呟く。
「僕は彼から逃げられない!永遠に彼の虜なんだ…!」
頭の中に反響するかのようにイドルフリートの歌声が聴こえる気がしてならない。
その歌声から逃げるようにメルヒェンは上へ上へと上り続け
冷たい雪が静かに降り積もる屋上へと辿りついた。
冷えた夜空の下で雪の積もった幾つもの銅像のある屋上には出たメルヒェンは
やっと足を止め立ちつくし、ブラウは屋上の扉を閉めてから小さな背中を見て諭すように言う。
「オペラ座の怪人なんていない!」
「けど僕はあそこへ行った!宵闇の支配する彼の世界…暗黒の世界に。
そして僕は二度と忘れられぬような瞼を離れないあの顔を、この目で確かに見た!」
血相を変えメルヒェンはブラウを見つめる。
夢にまで見てしまうあの白い仮面の下に隠された醜く歪んだ顔。
彼を受け入れようと思っても、地獄のかまどで焼かれたようなあの顔は思い出すだけで恐怖する。
イドルフリートを思い出しメルヒェンは全身をぶるりと震わせた。
ふと握りしめたままだった薔薇が視界に入る。
彼からの成功を祝う愛の証のそれを見つめ、メルヒェンは身体の力を抜いた。
「…でも、彼の声は僕の心を満たした」
恐ろしい存在である事すら構わないと思ってしまう魔力を含んだ歌声。
イドルフリートの声を思い出すだけで、心の中の恐怖は消え去ってしまうのだ。
「とても不思議な甘い音色…、あの夜が忘れられない。
聴いた事もないような素晴らしい音楽だった…」
「君は夢を見たんだ。夢に決まっている」
悪魔に魅了されたかのように虚ろな瞳に恍惚な表情をするメルヒェンを見て
ブラウは彼を自分にひきとめようと強くそう言う。
「あの時のイドルフリートの目はこの世の全ての悲しみを秘めていた…。
懇願するかのようなあの瞳は僕を威嚇しながらも憧れに満ちていた。
あの瞳に見つめられてあの甘い声で歌われるだけで僕は
例え全てを擲ってでも奴の彼の為に歌いたくなってしまう。
まるで麻薬のような彼の歌声から僕は逃げ出せない…!」
銅像の中の一つ、馬に乗る大きな騎士の像の影にイドルフリートは隠れていた。
イドルフリートは像の後ろに隠れじっとメルヒェンの言葉を聞いている。
ブラウはどこかに消えてしまいそうなメルヒェンを見て優しく彼の名を呼んだ。
「メルヒェン…」
恋人に名を呼ばれ振りかえろうとするメルヒェンを見て
イドルフリートは咄嗟に小さな声でメルヒェンを呼んだ。
『…メルヒェン』