夏祭り
そうして緋真の視線が下がり掛けた時、ふと都の双眸が海燕から逸れ、つと、緋真のそれと交わった。ドキリ、と脈打った鼓動が聞こえた気がした。
「そういや、さっきまで何見てたんだ?」
現実に戻す声に空気が流れた。問い掛けられた都は、あぁ、これ……と呟き店先の小物の一つを手に取ると、次に緋真の方を向いて、それを翳すように持ち上げてみせた。
「緋真さんに似合うんじゃないかと思って」
朱色と白が混じったちりめんの花飾りが大きく二つ、その下に連なるように同様の、こちらは一回り小さい花が一つ二つと垂れ下がり、花飾り三つの連なりが二本揺れる簪が緋真の目前に置かれた。芯の部分は漆塗りの漆黒で、なんとも艶めいた質感が出ている。
「お、ホントだ。良いんじゃねえか。おーいおっちゃん、この簪売ってくれ! このまま付けてくから包みはいらねえ」
「え、海燕様……! 都さん!」
断る間もなく話が進められ、どうしようかと慌てる内に、都が後ろに回り器用にくるりと黒髪を巻き、その簪を挿していた。緋真にとっては止める間もない早業だった。
「あの、そんな、これ……!」
「似合ってるぜ!」
「似合ってるわよ」
断るどころか何も云い返せない緋真であった。
***
「じゃ、おっちゃん、これ朽木白哉にツケといてくれ」
「あいよっ、ウチは現金払いのみだ」
「……………」
「……………」
「ちっ、あとで請求してやるっ。自分の女が身に付けるもん、あいつに払わせないでどーするっつーんだ」
***
それから暫く道を歩いたところで、海燕は口を開いた。目元には悪巧みを企む色がありありと浮かんでいる。
「さァて、そろそろあいつを呼び出さねえとな」
「あら、まだ声掛けてなかったの?」
「あいつ今日執務だからな。けどそろそろ一区切り付いてる頃だろーし。うしっ、腕によりをかけた脅迫状送ってやるよ」
「ほどほどにね」
「おう!」
都への返事を威勢良く返した海燕はひらりと舞う黒蝶を指へと留まらせると、弧を描いた口元へそっと寄せた。
***
さて、どうしたものか。
白哉は手元の案件に黙々と目を通しながら、対処の方法を考えていた。上の空になることなく雑務を熟す様は流石といったところであろうが、如何せんどちらに比重が傾いているかは明白である。
妻を娶ってからというもの、あの男に何度同じ手に乗せられたかなど、考えるだけで気が重くなるのだが。幸い今はそれほど重要な案件はなく、執務を早く切り上げたところで然程支障は来さない。さりとて大人しく奴の要求に従うのも躊躇いがある。と、筆圧を誤りべったりと墨が広がってしまった書類。普段の白哉なら考えられないようなミスだ。そんな己の失態を前にしばらく固まり、動作が遅れる白哉。
そんな白哉の様子を、隊員達はびくびくとしながら遠巻きに窺っていた。おそらく無意識であろうが、白哉は時折霊圧を垂れ流していたのだ。不意に襲い掛かる圧に押し潰されそうになりながら、隊員達は願っていた。頼むから早く奥さん迎えに行ってくれ……! と。
そんな必死の願いが通じたのか、六番隊舎を訪れた人物がいた。
「白哉様、お迎えに上がりました」
果たしてその人物とは、朽木家の使用人、清家その人だった。たっぷりと間を置き黙考した白哉は、ようやく口を開くと至極当然の疑問を発した。
「何ゆえ、清家が此処に」
「は、彼の人から承りましたところによると、こう何度も同じ手を用いりましたら、そろそろ白哉様も自分から執務を抜け出すのは躊躇われるかもしれませぬ。奥方との逢瀬をそのような強情を張り放るようでしたら、私に連れ出してほしい、と。私が迎えに上がりましたなら、白哉様も帰宅の途に着き易かろうとのことでして。こうしてお迎えに馳せ参じた次第であります」
長い台詞を一度も噛むことなく滑らかに紡いだ清家は主の帰宅を促した。再び黙考する当の主は胸中にて様々な葛藤が生じたが、最後には徐に腰を上げるに至った。
***
「あぁ、破けてしまったわ」
「あ。でも二匹も掬い上げて、すごいです。私なんてまだ……」
「慎重に勢いよくやれば掬えるわ。がんばって」
都と緋真の二人は金魚掬いに興じていた。都は敗れた網を返し、掬った二匹の金魚を受け取った。小さな袋の中に赤が二つ、揺らめいている。
対する緋真の方はというと、未だ網は破けていないが、金魚も掬い上げられないでいる。慎重になりすぎていて、掬おうとすると、す、と逃げられてしまうのだ。都の言葉を受け、軽く頷き返すと、今度こそといった風に水の中へと網を浸した。水面ぎりぎりのところで横に滑らせ赤を追う。逃げられた。もう一度。それを何度か繰り返す。
「難しいです」
「もう少しよ。こんなに長時間網が破けないなんてすごいわ。コツを掴めば名人になれるんじゃないかしら」
「そんな。私はただゆっくり動かしているだけで」
「それが難しいのよ。あ、近付いて来た」
ふと水槽を見やるとその言葉通り何匹か近くを泳いでいる。その内の一匹に狙いを定め、再度緋真は、すぅ、と網を沈めた。慎重さも大事だが、思い切りの良さもなくては掬えない。今度こそ、と滑らせ掬った。
「あ」
「うまいわ、おめでとう」
「はい。ありがとうございます。でも、破けてしまいました」
見事、一匹掬い上げることができた。けれどその代わり、手には破けた網。礼を云ってそれを返し、一匹の赤が泳ぐ袋を受け取った。透明な水の中に、赤がなんとも鮮やかである。自分で掬ったそれを覗き込む緋真の表情は綻んでいた。手拭いで水滴を拭っていると、遠くから声が聞こえた。
「おーい、――お待たせ。お、掬えたのか! やったな! んじゃ、掬えた記念にプレゼント」
海燕は二人の手にある袋を見留めると、喜色満面に笑み都合の良いことを云って、屋台で買ってきたりんご飴を手渡した。
「ありがとうございます」
「ありがとう」
手渡されたまあるいそれを口へと運び、一口かじると飴の甘さが口内に広がる。思わず頬が緩み笑顔が零れた。
「おいしい」
「そりゃ良かった」
嬉しそうに笑みを返す海燕。その様子を微笑ましく見守る都。この二人と居ると、緋真はいつも幸せな気持ちになる。自然体でいられるのだ。今この時が、とても楽しい……はずなのに、やはり白哉に想いを馳せてしまうのは止められない。多忙な方なのだから、執務を優先させるのは当然のこと、と解ってはいるのだが。
ほんの少し、寂しげな色を混じらせた瞳に、目聡く気付いたのは都だった。
「寂しい?」
「……! いえ、お二人とこうして過ごせて、とても楽しいです。寂しいなどとは」
「でも朽木さんが居たらもっと楽しいだろうな」
「!」
「当たり?」
「そんな、白哉様は多忙な方ですから、我儘を云って困らせたくはありません。一緒に来られないからといって、寂しがったりしてはいけないのです」
「あら、そんなことはないわよ。緋真さんはもっと、朽木さん対して甘えていいと思うわ。ねえ、海燕」
「当たりめえだろ。どんどん我儘云ってやれ!」
「いいえ、今でも充分過ぎるほど、幸せを頂いております」