君知るや
「――ならばこうしましょう、」
ふっと口の端を緩めて彼が言った。
「君がお腹に入れてしまった鶏の代わりに、私が君を飼うことにします」
「は?」
――しまった、早まったか? 呆気に取られて少年は思った。見かけによらないとはこのことだ、品の良さそーな面にすっかり騙されたぜ、たじろぐ少年を余所によく通る声に彼は続けた、
「君は勝ち負けに拘ってるみたいだから、……そうですね、そうして君が私の中で鶏以上の存在になったら君の勝ち、やっぱりこの鶏と変わらないなとしか思えなかったら私の勝ち、」
「……つか無茶苦茶じゃないスか?」
やけに楽しげな彼の様子に、恐る恐る少年は訊ねた。何か見えない圧のようなものに押されて、言葉遣いまで若干変わらざるを得ない。
「何がですか?」
鶏舎を眺めていた彼がきょとんと振り向いた。少年は胡坐のまま頭を掻いた。
「そやってそっちが勝手に決めんだから、俺は最初から負けってことじゃ……ないスか、」
掻き毟った頭から手を降ろして、少年が大仰に息をついた。彼がまたくすりと肩を揺らした。
「そんなことありませんよ」
――一緒に暮らしていれば自ずと答えはわかります、見上げる少年に視線を合わせて彼は言った。
「はぁ……?」
少年は曖昧に頷いた。――もしかして、彼とは本当の意味で言葉が通じないのかもしれない、うやむやのうちに言いくるめられて、いまさら少々不安にも駆られながら。
+++
そうして始まった彼との暮らしは、意外にも、拍子抜けするくらい淡々と穏やかだった。
いや、穏やか六割、厳しさ四割、やらかした鶏舎の世話にメシ食うための水汲んで薪割って、残りの日に数時間は机に張り付かされて、彼の部屋に山積みにされている“本”ってヤツ、食いモンじゃないなら燃やして薪にでもするのかと、けれど彼は違うと言う。
――あれには一冊ごと“世界”が入っているんです、そうして渡されたブツを開いた途端、びっしり書かれた墨文字がギュウギュウにくっ付いて飛び出してくるのもくらくらするが、鮮やかな彩色絵入りのヤツも、それはそれで妙なものだった。斑模様のろくろ首の黄色い化けモンや、えらく腫らした長い鼻引き摺ったあげくどう見てもお化け団扇みてーなシロモノ頭の横にくっ付けて、またそれがヤツの耳だっつんだから呆れてしまう。そんなふざけた生き物がお日さんの下のしのし野っ原歩いてるなんて本当だろうか、彼はさも見てきたように話すけど。
たまに味噌やら米やら、ごっそり本の束やら運んでくる連中、皆が口を揃えて彼のことを先生、先生って、いったい彼はどういう人間なのか、年だってそんなに、せいぜい自分に一回り毛が生えた程度だと思うのに、……ひょっとして若いのは見かけだけで、正体は怪しい呪い使いの仙人かなんかじゃなかろうか、つい真面目にそんなことも考えてしまったくらいだ。
屋敷で過ごす夜は夜で、――俺枕が変わると眠れないんス、なんてあからさまな意味のない嘘ついて、枕なんざ、屋根の下で継ぎ当てのない布団の上で寝たことだって、生まれてこの方、果たしてあるのかないのか。
用意された布団の上で背中がふわふわ落ち着かなくて、居心地悪いったらなくて、夜中にひとりでうんうん寝返り打ってたら、明かりを持って様子を見に来た彼が言った。
「やっぱり眠れませんか?」
「……」
布団から、跳ねた癖毛と眉と、わずかにその下だけ覗かせて彼を窺う。
「腕枕、してあげましょーか?」
にっこり笑って彼が言った。
「はぁ?」
少年は眉間を歪めた。だからやんなるよなこのヒト、いったい俺をいくつだと思ってんだ、かーちゃん恋しいガキじゃねぇんだ、……だいいち恋しがるつもりのかーちゃんの記憶もすげぇぼんやりさんだし。
「腕枕はじょーだんでも、昔話くらいしてあげましょう、」
燭台に明かりを置いて、彼がすっと布団に入ってきた。
「……ちょっ」
少年は慌てた。
「?」
――近い! 近い近いマジで!!
「どうかしましたか?」
長い髪を揺らして彼が首を傾げた。イヤ何でもないっすと少年はごそごそ彼に背を向けた。
「……後ろ向かれちゃ寂しいです、」
本当にやるせなさそうな声で、ため息混じり、彼が言った。背中に感じる彼の体温、振り向きたくても振り向けないのが現状で、
「じゃあ、寂しいついでにとっておきの怖い話でも」
ゴホンと一つ咳払いして彼が言った。
「!」
少年は布団の中で慌ててくるりと向きを変えた。正面に彼を見据え、冷や汗に引き攣り笑いを浮かべながら、
「そっ、それはまた次の機会にでもっ、」
「そーですか?」
揺れる明かりを背景に、真面目な顔に彼が言った。
「お豆腐屋さんに聞いたすごく怖くて面白い話なんですけど……残念です、」
(……。)
――やれやれ、少年は心の中で額の汗を拭った。
「じゃあ、何の話をしましょうか?」
くすくす含み笑いに、くっつきそうな勢いに少年の額に顔を寄せて彼が言った。少年は目を瞬かせた。――なんでか知らないが、こうして彼の傍にいると落ち着かなくてドキドキするのに、頭がぼうっと痺れたように眠くなる。眠いけど、眠るのが勿体なくて、本当にこれは現実だろうか、禿山のカラスかなんかに化かされた夢なんじゃなかろーか、一度眠ったらそれっきり、目が覚めて、――ハイそーですその通り全部夢でした、とかあっさり宣言されたら冗談じゃないそんなのやってられない、一生懸命目を開けて、彼の声を聞こうとして、……それとももしかしてこれは走馬灯ってヤツなのか? 本物の俺はとっくに野山でくたばってて、――ああだけど、俺を迎えに来るのが目の前で笑ってるこの人であるはずがない、来るならもっとひでぇ見てくれの鬼やら蛇やら、何かが化けて出てるにしたって出来すぎだ、
(……、)
ああもうどーでもイイや、襲う睡魔に耐えきれない、化かされてても全部夢でも、カラスと豆腐屋の分厚い油揚げが陽気に手を取り合って輪を作る。互い違いのカラスと油揚げがぐるぐる踊る、頭の底が油揚げの味噌汁の鍋底に溜まった油みたいに重たくどろりと溶けていく。――センセー朝飯の時間スよ、夢の中で彼に手を伸ばす、触れた温もりの上ににっこり笑った彼の手が重なる、薄い色の唇が動いて自分に何かを訴える、けれど言葉は聞き取れない。……そりゃそうだ、普段から何語しゃべってんだか、俺の知らないムツカシー言葉ばっかすらすら読んだり書いたり、自分ひとりでやってりゃイイのに、それを見ている俺の方にもふっと気配で目を上げて、ニコニコ教えよーとするんだほんとカンベンして欲しい、……まったくヒデェ話だ、最後の最後の夢の中くらい、朱筆のバッテンは懲り懲りです、誰に向かっての悪態か、少年の意識はそこで途切れる。
「……。」
そうして翌朝目が覚めて、どうやら自分がまだ昨日と同じ布団の中にいるらしいと、知ったときには混乱して、混乱したまま、
「オハヨウございます」
跳ねた頭に寝ぼけ眼擦って起き出して、とっくに着替えて文机に向かっている彼に、
「おはようございます、」
ふっと口の端を緩めて彼が言った。
「君がお腹に入れてしまった鶏の代わりに、私が君を飼うことにします」
「は?」
――しまった、早まったか? 呆気に取られて少年は思った。見かけによらないとはこのことだ、品の良さそーな面にすっかり騙されたぜ、たじろぐ少年を余所によく通る声に彼は続けた、
「君は勝ち負けに拘ってるみたいだから、……そうですね、そうして君が私の中で鶏以上の存在になったら君の勝ち、やっぱりこの鶏と変わらないなとしか思えなかったら私の勝ち、」
「……つか無茶苦茶じゃないスか?」
やけに楽しげな彼の様子に、恐る恐る少年は訊ねた。何か見えない圧のようなものに押されて、言葉遣いまで若干変わらざるを得ない。
「何がですか?」
鶏舎を眺めていた彼がきょとんと振り向いた。少年は胡坐のまま頭を掻いた。
「そやってそっちが勝手に決めんだから、俺は最初から負けってことじゃ……ないスか、」
掻き毟った頭から手を降ろして、少年が大仰に息をついた。彼がまたくすりと肩を揺らした。
「そんなことありませんよ」
――一緒に暮らしていれば自ずと答えはわかります、見上げる少年に視線を合わせて彼は言った。
「はぁ……?」
少年は曖昧に頷いた。――もしかして、彼とは本当の意味で言葉が通じないのかもしれない、うやむやのうちに言いくるめられて、いまさら少々不安にも駆られながら。
+++
そうして始まった彼との暮らしは、意外にも、拍子抜けするくらい淡々と穏やかだった。
いや、穏やか六割、厳しさ四割、やらかした鶏舎の世話にメシ食うための水汲んで薪割って、残りの日に数時間は机に張り付かされて、彼の部屋に山積みにされている“本”ってヤツ、食いモンじゃないなら燃やして薪にでもするのかと、けれど彼は違うと言う。
――あれには一冊ごと“世界”が入っているんです、そうして渡されたブツを開いた途端、びっしり書かれた墨文字がギュウギュウにくっ付いて飛び出してくるのもくらくらするが、鮮やかな彩色絵入りのヤツも、それはそれで妙なものだった。斑模様のろくろ首の黄色い化けモンや、えらく腫らした長い鼻引き摺ったあげくどう見てもお化け団扇みてーなシロモノ頭の横にくっ付けて、またそれがヤツの耳だっつんだから呆れてしまう。そんなふざけた生き物がお日さんの下のしのし野っ原歩いてるなんて本当だろうか、彼はさも見てきたように話すけど。
たまに味噌やら米やら、ごっそり本の束やら運んでくる連中、皆が口を揃えて彼のことを先生、先生って、いったい彼はどういう人間なのか、年だってそんなに、せいぜい自分に一回り毛が生えた程度だと思うのに、……ひょっとして若いのは見かけだけで、正体は怪しい呪い使いの仙人かなんかじゃなかろうか、つい真面目にそんなことも考えてしまったくらいだ。
屋敷で過ごす夜は夜で、――俺枕が変わると眠れないんス、なんてあからさまな意味のない嘘ついて、枕なんざ、屋根の下で継ぎ当てのない布団の上で寝たことだって、生まれてこの方、果たしてあるのかないのか。
用意された布団の上で背中がふわふわ落ち着かなくて、居心地悪いったらなくて、夜中にひとりでうんうん寝返り打ってたら、明かりを持って様子を見に来た彼が言った。
「やっぱり眠れませんか?」
「……」
布団から、跳ねた癖毛と眉と、わずかにその下だけ覗かせて彼を窺う。
「腕枕、してあげましょーか?」
にっこり笑って彼が言った。
「はぁ?」
少年は眉間を歪めた。だからやんなるよなこのヒト、いったい俺をいくつだと思ってんだ、かーちゃん恋しいガキじゃねぇんだ、……だいいち恋しがるつもりのかーちゃんの記憶もすげぇぼんやりさんだし。
「腕枕はじょーだんでも、昔話くらいしてあげましょう、」
燭台に明かりを置いて、彼がすっと布団に入ってきた。
「……ちょっ」
少年は慌てた。
「?」
――近い! 近い近いマジで!!
「どうかしましたか?」
長い髪を揺らして彼が首を傾げた。イヤ何でもないっすと少年はごそごそ彼に背を向けた。
「……後ろ向かれちゃ寂しいです、」
本当にやるせなさそうな声で、ため息混じり、彼が言った。背中に感じる彼の体温、振り向きたくても振り向けないのが現状で、
「じゃあ、寂しいついでにとっておきの怖い話でも」
ゴホンと一つ咳払いして彼が言った。
「!」
少年は布団の中で慌ててくるりと向きを変えた。正面に彼を見据え、冷や汗に引き攣り笑いを浮かべながら、
「そっ、それはまた次の機会にでもっ、」
「そーですか?」
揺れる明かりを背景に、真面目な顔に彼が言った。
「お豆腐屋さんに聞いたすごく怖くて面白い話なんですけど……残念です、」
(……。)
――やれやれ、少年は心の中で額の汗を拭った。
「じゃあ、何の話をしましょうか?」
くすくす含み笑いに、くっつきそうな勢いに少年の額に顔を寄せて彼が言った。少年は目を瞬かせた。――なんでか知らないが、こうして彼の傍にいると落ち着かなくてドキドキするのに、頭がぼうっと痺れたように眠くなる。眠いけど、眠るのが勿体なくて、本当にこれは現実だろうか、禿山のカラスかなんかに化かされた夢なんじゃなかろーか、一度眠ったらそれっきり、目が覚めて、――ハイそーですその通り全部夢でした、とかあっさり宣言されたら冗談じゃないそんなのやってられない、一生懸命目を開けて、彼の声を聞こうとして、……それとももしかしてこれは走馬灯ってヤツなのか? 本物の俺はとっくに野山でくたばってて、――ああだけど、俺を迎えに来るのが目の前で笑ってるこの人であるはずがない、来るならもっとひでぇ見てくれの鬼やら蛇やら、何かが化けて出てるにしたって出来すぎだ、
(……、)
ああもうどーでもイイや、襲う睡魔に耐えきれない、化かされてても全部夢でも、カラスと豆腐屋の分厚い油揚げが陽気に手を取り合って輪を作る。互い違いのカラスと油揚げがぐるぐる踊る、頭の底が油揚げの味噌汁の鍋底に溜まった油みたいに重たくどろりと溶けていく。――センセー朝飯の時間スよ、夢の中で彼に手を伸ばす、触れた温もりの上ににっこり笑った彼の手が重なる、薄い色の唇が動いて自分に何かを訴える、けれど言葉は聞き取れない。……そりゃそうだ、普段から何語しゃべってんだか、俺の知らないムツカシー言葉ばっかすらすら読んだり書いたり、自分ひとりでやってりゃイイのに、それを見ている俺の方にもふっと気配で目を上げて、ニコニコ教えよーとするんだほんとカンベンして欲しい、……まったくヒデェ話だ、最後の最後の夢の中くらい、朱筆のバッテンは懲り懲りです、誰に向かっての悪態か、少年の意識はそこで途切れる。
「……。」
そうして翌朝目が覚めて、どうやら自分がまだ昨日と同じ布団の中にいるらしいと、知ったときには混乱して、混乱したまま、
「オハヨウございます」
跳ねた頭に寝ぼけ眼擦って起き出して、とっくに着替えて文机に向かっている彼に、
「おはようございます、」