closer
自分も彼も同じならば、彼もまたあの彼であるはずなのに、この記憶のように愛することは出来ない。
あの極彩色の狂った街で出会い、その全貌が見下ろせるあの高台でコートを靡かせて立っていたあの男ではない。
苦しげに独白しながら闘い合った男の記憶は、もう存在しないのだ。俺の心にだけ残っている記憶なのだ。
あの三國壮一郎は何処にいってしまったのか、そして案外自分があの三國のことを好いていたことを知る。
彼の存在が愛しい。
その愛しいという感情は、もう一つの記憶に引き摺られているのか、元来のと思っている経験から感じているのか、徐々に曖昧になっていく。
薬のせいか思考にもやが掛かってくる。立ち去ろうとした三國の腕を掴んだことだけは判っている。少し戸惑っていた三國の掌が、そっと額に置かれた。懐かしい気持ちになった。その大きな掌、温もりに父親を思い出した。
側にいて欲しい、誰でもというわけじゃない…………
それはどちらの俺が思っているのか、そもそも俺は俺であって、どちらのでもないのか……判らない…………
時間が判らない。
気付けば、目が醒めると部屋は暗くなっていた。眠らされた時はまだ明るかったのに、なにか呻くような音に目が醒めたのだ。また低く誰かの声がする。
闇に慣れた瞳を凝らせばベッドサイドに三國が顔を伏せて眠っていた。こんなに広いベッドなのだから共に眠ればいいのに、だがきっと彼は遠慮をしたのだろう。
彼にとっては記憶を失った恋人が公麿なのだが、性的な意味を含む好意を抱いている人間が共に眠ることへ配慮したのだろう。
なのに、その三國がうなされている。苦しげに唸る姿が居たたまれずにその大きな体を揺り起こした。
「すまない、寝ていたようだ」
「寝るならベッドで寝ろよ」
ああ、と小さく返事をし再び退出しようとする三國の腕を背後から掴んだ。
「何処行くんだよ……」
「向こうのソファで寝てくるよ」
「あんた、うなされていた、いつも……なの?」
ぽんぽんと背後の公麿の頭を撫でると、三國はそのままベッドの縁に腰掛けた。
「そうか、すまなかった」
そう俯く姿はとても疲れているように見えた。あんな不自然な姿で寝ていたということよりも、もっと違う意味で疲れているような、それは最後に見たあの三國の姿と重なるのだ。
「そうじゃなくてさ、いつもじゃないよな?」
与えられた新しい記憶を活用を未だ上手く活用することは出来ない、思い通りに遡ることが出来ないのだが、三國が苦しんでいる姿の記憶がない。浮かび上がってくるのは、二人で楽しんでいる思い出だけだ。その度に幸福感が身体を満たしていく、その激情に感情が伴わない。不思議だ。
「あまり、お前の負担にしたくないのだがな……」
少しいい倦ねているのか、前置きしてから三國は話しはじめた。
「若いときからよくあったんだ。原因が不明で色々と医者に通ったがどうにもならなかった。お前と出会って……、その……、なんだ、お前と寝るようになってから無くなったんだ」
何回か澱むのは、性的な関係に対して触れることへの配慮だろう。少し照れているのか、それとも気にしているのか伏せたまま横顔が、仄かに染まっている。
この世界の公麿にとってもこの話を聞くのは初めてであったらしい、漸く二人の感情が重なった気がする。そして、とても驚いている。この三國にとって恋人でもあり、安眠するための大切な存在でもある。いや、恋人を得て安眠を勝ち取ったのかもしれない。
もう一つの記憶が、愛しげに自分を抱き締めながら眠る姿や、先に起きてしまい眠ったままの三國を抱き締めたことを再生し続けている。そんな穏やかな甘い記憶には、心を乱されずただ、暗がりの中苦しそうに呻いていた男の姿だけを思い返す。
なにを三國は苦しんでいるんだろうか、藻掻いているのだろうか、起き抜けの三國の疲れた表情はよく知っている三國に近かった。彼もまた塗り替えられた記憶を有しているのはないだろうか、消えていこうとする記憶に彼はうなされているのではないか…………
「少しいいか?」
控えめなその言葉に公麿は頷くと彼の隣へと腰を降ろした。三國は少しずつ、言葉を選びながら話し始めた。
「その……、お前がどうしても俺といるのが辛いなら諦めるが、もし特に行く場所もないのならば、なんだ……、お前に目的が出来るまでは俺の側にいて欲しいんだ」
「えっ……」
俯きながら紡がれる言葉を聞きながら、公麿は最後に顔を上げた。
彼にとっては自分は恋人ではあるが、今の公麿にはそれは受け入れがたい状況なのだ。それを考えて、いつでも離別する覚悟はあるのだということだ。だからこそ、それまでは側に居たいという哀しい三國の思いだった。
最後に見た三國の表情のと重なる少しやつれた顔は、やはり彼は記憶を上書きされただけで彼自身なのだろうと思わせる。
「無理強いはしないつもりだ。俺にとっては恋人だが、お前にそれを受け入れる義理はないはずだ」
俯いてた顔を上げ、まっすぐに公麿を見つめる三國は何処か弱々しく思えた。彼もまた不本意なのだろう、だが公麿を気遣いその上での選択なのだろう。遠回しの別れの言葉は、彼にとっては辛いものだろう。
「頼む、それまでは側にいてくれ……」
だからこそ、この最後の言葉は血の滲むような、心の奥底から込み上げてくるような力があった。切望する慟哭は静かだが、とても熱く、深く、そして想い、重い。比重の高い物質が徐々に沈んでいくように、その言葉は公麿の体内を浸食し、そして沈み積み重なっていく。
「いいけど……」
素っ気ない言葉は照れ隠しみたいなものだった。この真摯な眼差しと言葉に応じられるものなど浮かばなかった。
「ありがとう」
嬉しそうに微笑む三國を見ると、これ以上黙っているわけにはいかなかった。嘘をついてたいたわけではないが、言い出すタイミングが掴めなかっただけだ。なによりも、この事態をどう説明して良いのか公麿には思いつかなかった。
「あのさ、俺、記憶あるんだよ」
戻ったとは言わなかった。三國とって『戻ってきた』と感じる記憶が、今公麿の中にも『有る』というだけだ。だが、二つの記憶を有している公麿は、三國が戻ってきて欲しい公麿ではない。
「戻ったのか……」
「まぁ、戻ったっていうか、二つあるんだよ」
二つ記憶を有していることを理解できるのだろうか、そもそもとして三國はどう今の自分を受け止めているのか、それすらも判らない。ただの記憶喪失では無いことだけは判っているようだが、だとしてもこの状況を理解しているとは思えない。
「なるほどな……」
その三國の返事は意外にも、事態を受け入れているようだった。
「変だって思わねぇの?」
まず疑うだろう、もしくは違う病気の可能性を考えるはずだ。この世界でどんな治療を受けていたのかは判らない、手元にある記憶はその部分は欠落しているのだ。
「お前がこうなったときにな『自分は別の世界の人間なんだ』と言ったんだ」
「それ、信じたの?」