closer
そんな世迷い言を信じるとは思えなかった。もし、それが自分の立場だとしたら信じることはないだろう。他の病気の可能性と、そんな芝居をしてまで自分と別れたいのだろうかと悩むだろう。
「信じるもなにも、恋人が……、愛しい相手が言うのだから信じるだろう」
直情的に愛を囁かれるとどうしていいか判らない、こんな絵空事のような自らが経験してなければ嘘だと、夢なのだと思うだろう。そんなことが信じられると言い切れるとは…………
「その…… えっと、ありがとう」
「お礼を言われるようなことかな……」
公麿自身もおかしいとは感じているが、嬉しかったのは事実だった。どう感謝を伝えていいか判らないが、三國がとても公麿のことを信用しているということでもあり純粋に嬉しかった。普通ならば、見捨てられても、奇異な目で見られても仕方がないことだというのに……
そして、恋人として三國は辛かったであろうことも…………
「それに普通の記憶喪失とは違っていたからな、お前の言うところの『この世界』の風習とかも理解していなかった。日常生活送るのも大変だったしな、通貨単位が違うとかな……」
目が醒めて初めてこの世界を見回した時ね色々と違和感を感じていた。街並みも、通貨の単位も様々なものが異なっていた。そして、受け取った記憶からは歴史や生活習慣も違うことが判った。その話をしたのであれば、本当に違う世界があったことを信じることはあるだろう。
それでも、大半は夢でも見ていたのだろうと片付けられるだろう。
「確かに、最初から信じていたかと言われると辛いがな、遠回しな別れるための理由かとも疑ったこともあった」
「そのさ……、記憶のない、別の世界の俺でも良かったの?」
今の公麿にとって、横に座る三國は、三國似た何かでしかない。あの記憶を有していない三國は、公麿が知っている三國ではない気がするのだ。愛し合っていたのならば、その記憶のない相手を愛することが出来るのだろうか…………
「お前は……、公麿は公麿には変わらないだろう?」
「そうかな……」
果たしてそうなのだろうか、記憶、経験、その人物がそれまで生きていた全てをすり替えられている状況で、それでも本人なのだと言える自信はなかった。
外見上、最も違うと感じる髭のない顎を見つめると、ふいに三國が動いた。
「それだ」
伸びた三國の掌が公麿の指先を掴むと、自らの顎に触れさせた。
「えっ……」
急に導かれたことに公麿は戸惑うと、三國はその手を離した。そして再び指先が顎先を撫でていた。かつての三國がよくそうしていたように…………
「髭を生やしていたんだろう? 俺は」
「そうだけど」
そんな話を自分はしただろうか、髭のことはまだ話した覚えが公麿にはなかった。
「実は記憶を無くす前からそこをお前は触っていたんだ。よく……」
懐かしむように目を伏せた三國の横顔に、彼の哀しみを感じた。変わらないと言い切ったが、それでも互いの思い出を失われてしまったことは辛いのだろう。
「俺もはやしてみるかな」
「えっ、いいよそこまでは……」
伏せていた瞳を三國は開けると優しく、顎を撫でながら笑っていた。髭に思い入れがあるわけではないのだから、構わないと首を振れば、
「童顔で困ってたんだ。少しは箔でも付くだろう」
三國はそう言って楽しそうに笑っていた。あの三國もそんな理由で髭を生やしていたのだろうか、別に理由があったのか、無かったのか、話したこともなかった。彼との期間は短くそして濃かった。もっと、色々と話したかった。あの三國と……
そっと隠れるように三國の背後へと公麿は回った。三國に聞いてみたいことがあった。
「あのさ、もしも三國さんが他の世界に飛ばされたとしたらどうする?」
「俺は今を生きるよ」
その問い掛けに、三國は悩まずに即答した。その言葉はあの時、三國が最後に言った言葉と変わりなかった。
「…………。」
そう語る三國の背中は、いつも見ていたあの三國の背中に似ていた。大きく広かった背中が今、手を伸ばせば届く場所にあるのだ。
「俺がいる世界が、俺の『今』だ。だから、その世界を生きるさ」
未来で会おう、その言葉を三國は否定した。だが、彼が望む永遠の『今』は、連続する今は未来に続いているのだと公麿は思っている。きっと、彼は何処にいても、『今』を生きているのだ。それは必ず未来に繋がっているのだと公麿は信じている。
「三國さん……」
「どうしたんだ、急に……」
ここに居たんだ。やっと、あの三國とこの三國が重なった気がした。漸く三國と出会えた。公麿が知っている三國と再び会うことが出来た。
込み上げてくる思いが、公麿のものなのか、もう一つの記憶に寄るものなのか判断出来ない激情に駆られ公麿は三國を背中から抱き締めていた。
確かに、この中にあの三國がいるのだ。力強く背後から抱き締めると、少し三國の身体が震えてから、前に廻した掌の上にそっと手を重ねた。
初めから全て掌の上だった。
だいたい、未来を担保に金を貸すと言われても、拒否することも出来なかったし、返済方法がそもそも聞かされてはいなかった。契約してしまえばおしまいで、返済方法は無いのかもしない。それとも、勝ち続け、勝ち続けて輪転機を逆回転させることだけが返済方法なのかもしれない。
公麿の中には前の世界での記憶がある。そして、この世界での記憶もある。データであるこれの経験はどちらが正しいのだろうか、こちらの公麿が無い顎髭を触ったりしていたのは、少しでも感情が移入できるようにでもしてくれたのだろうか、これもまたサービスの一つなのだろう。
その掌の中にいながら、いつも三國は足掻いていたと公麿は思っている。自分もそうであって、だからこそ闘ったのだとおもっている。
悪夢に魘されていた三國は、上書きされた記憶を取り戻そうと足掻いている姿なのかもしれない、そして今の考えた方も三國自身のものだ。いくら塗り替えられても、その中にある本質はきっと代わりないのだろう。
「どうかしたのか?」
何も言わずに背後から抱き締めた公麿を訝しがるように、三國が再び優しく問い掛けた。公麿が知っている三國に出会えたことが嬉しいのだと、三國に告げてもきっと判って貰えないだろう。
掌に感じた違和感の正体について、照れ隠しのつもりで呟いた。
「指輪…… してないんだ」
「俺は指輪もしてたのか?」
この指とこの指、そしてもう一つしていた。その場所を確認するように指の付け根に公麿は触れた。
「三つか……、じゃあ俺もするかな」
「えっ、いいよ。金とかかるし」
髭を伸ばすこととは訳が違う、記憶ではこの世界の三國もそれなりに裕福だが、あの三國とはまったく桁が違う。
「そのくらいは平気だよ。明日、良ければ一緒に見に行かないか?」
「えっ?」
明日、些細な約束が嬉しくて公麿は更に強く三國を抱き締めた。今度は三國が公麿の指の付け根を触りながら続けた。
「その…… お前にも指輪を贈りたいんだ」
「それって……」
意味ありげに触り続けている指の位置に、その意味を知り問い掛ければ珍しく照れているのか俯いた横顔を赤く染めた三國が呟いた。
「いや、付けなくてもいい、ただ貰って欲しいだけなんだ」