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エア・コンディショナーと追憶ごっこ

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蜂蜜の色でしとどに濡れそぼった太陽が、夏休みで弛緩した学生たちの空気を戒めるような、それは夏だった。ねずみ色のコンクリの打ち水をされた先には視界をだまくらかすような陽炎がたちのぼり、植物はそれでも鮮やかに色を取り戻して、家々ではクーラーの作動する低いうなりにも似た音だけが閑散とした道路に響く。
その日は珍しく泉水と嵐士だけが家に居て、母が作り置いてくれていた軽めの食事にさらに兄が手を入れデザートまでつけたものを食い、彼らは過ごすのもけだるい、真夏の午後を怠惰に存分に摂取していた。
そのころには彼らの部屋はさすがに分かれていたけれども、泉水は目当てのゲームをやりに、嵐士はこちらのほうが涼しいからだとかで、リビングでそれぞれの時間を過ごしているところである。泉水は寝巻きと変わらないようなジャージ素材の半パンと家用のよれたTシャツを着ていたが、対する嵐士は家の中でもきちんと半袖のシャツと足の長さが強調されるような細身のパンツを履いていて、この長い長い時間を経てあまりにも違う道を取ってしまった彼ら兄弟の人生の分岐に、泉水は思うところがないわけではなかったのだけれど、……
泉水の操作するコントローラーの、その先につながったブラウン管から聞こえる電子音ばかりが室内には響いていた。限界まで稼働させられているクーラーが唸り、母親だか兄だかの趣味めいたリビングのレースのカーテンが、遮りきれなかった光をおおぶりに零しては彼らの目をくらませる。

兄が、ふと、フローリングの床にクッションを敷いて直に座っている泉水の背後にまわる気配があった。それまではテーブルのあたりで夏休みの課題か趣味の手芸かをやっていたらしいから、珍しく一緒にゲームでもやる気になったのかと泉水はにわかにいぶかしがる(ちなみに普段やらないだけで、一度コントローラーを持つと、嵐士はゲームもめっぽう強い。幼いころは格闘ゲームで、よくなみだ目になるほどこてんぱんにやられた)。――降ってきたのは乱れることのほぼない、抑揚の少ない穏やかな声で、泉水はふと、彼の声の音質が好きだと言っていた夢見がちな同級生の女子のことを思いだす。

「泉水、これ見て」
「ぬいぐるみだの何だのは見たくねェ」
「いや、そうじゃなくて、猫。猫の写真」
「え」
「この前かおりと一緒に道で見かけてさ、野良猫だったんだけどあんまりにかわいかったから激写してきたんだ」
「……ッ、」

思わずコントローラーを操作してとめどなく展開する画面に一時停止をかけて、振り向いた泉水の先でやはり、弟の弱点も自尊心も性格もすべて知り尽くした兄は穏やかにわらっている。最近機種を変更した携帯電話の、差し出されたホワイトの小さな画面をためしに見てみると、そこにはたしかに稀に見る、かわいい野良猫の画像がうつっている。少しだけ毛並みの乱れた、三毛の、太っている腹を見せつけるようなポーズ。
泉水は思わず画面を食い入るように見つめて、わりと大変な努力を自らに強いつつ顔をそむけた。
兄のアイデンティティを受け入れたら、正直負けだと思っている。俺はかわいいもの好きな大人になんてなりたくない。

「ほら、かわいいだろう。何なら写メしようか?」
「……要らねえ」
「うんまあもう送ったたけど」
「余計なことすんじゃねーよ」
「うんごめん。でも、泉水に見せようと思って撮ったんだから」
「……」
「ふふふ。かわいいよねえ、猫」
「笑うんじゃねえ気味がわるい」

いま耳朶のおくふかくを流れるのは、たしかに平凡な、幸福めいた音楽だったに違いない。
エア・コンディショナーが、途切れることなく冷風を吐きだし続けていた。中断された画面から尚、ファミリー・コンピュータ時代を思いださせる電子音楽は流れ続けている。暑い最中に涼しい室内から見る、光あふるる外界の独特の幸福感。嵐士はまだ立ち退く気配を見せず、ちいさな画面をいじっては、泉水に何ごとかを話しかけようとしているらしかった。ただ、その次に重ねられた台詞だけが、異質めいて空間を遮断する。

「あ、そうだ『めぐみ』」
「……、」
「…………あれ、ごめん」

間違えた、と、嵐士は言った。従姉妹の気まぐれに美しく動く首元から、女そのものを体現するかのような香水のにおいが今、具現化したような気がする。――電子音。なんだろう、これは。目の前にした、兄の、顔が、どんどんと困ったようになってゆく様を仰ぎ見る。泉水は対面する自分の顔が、無愛想なものになってゆくのを半ば客観的に眺めていた。そんなものは兄の反応ひとつですぐに分かる。一体、何年、この男と兄弟をやってきたのだと思っているのだ。
怒るところではなかった。何言ってんだと一蹴して、リモコンを操作して、pauseと描かれた凍結した画面を元に戻すことなど余裕で可能なはずだったのに。
じくじくと、痛むのは、隠されていたのがつらいからなのかそれとも今尚兄のことを取られたくないと思っているのか女顔だというコンプレックスが発露しているのかもはや見当もつかぬ。衝動的な瞬発力では、もしかするとめぐみよりも直情さが働く泉水の、それは、混沌とした怒りだった。
コントローラーを置いて、画面を放置して立ち上がる。兄の、結局最後まで身長を越せないだろう長身を、少しだけ見上げるような形でにらむ。しずかに。理由のない怒りとか、論理を基盤としない感情なんて、まるで女みたいでめぐみみたいで嫌だと思った。だけれどどうしようもない。だって我々はどこまでも兄弟で、めぐみとは血のつながった従姉妹で、そんな関係性のどろどろとしたところなんて見たくないし感じたくないのに。
クーラーが怪獣のように唸っていた。音だけうるさい旧型のリビングのエアコンは、彼らがまだ幼かったあの夏から、泉水がひとり部屋を乞うたあの時から、変わらずに羽柴家のリビングに鎮座している。何も変わらないでいられたらよかったのだろうか。でも、それでも泉水はきっと、あのときみたいに求めるだろう。ひとりの部屋を。あるいは、兄の兄たるすべてを。

「俺はめぐみじゃない」
「ちょ、泉水」

追いすがる兄に背を向け無言でリビングの扉を開ければ、忘れていた夏の灼熱の倦んだにおいと、降り注ぐ豪雨のような蝉の声がある。階段を上がって、昔は兄とシェアしていた自室へ帰り、逃げるように鍵をかけて扉の前に座り込んだ。何をやっているのか分からない。ドアの前で、泉水を追いかけてきたらしい兄の足音が止まる。
適当な癇癪だと思って放っておいてくれたらいいのに、どうやら、世話焼きの兄の前では「放置」などという概念すら霧散するらしい。止まった人影はそのままずるずると扉の前でしゃがみこんだらしく、今同じく座り込んだ、泉の耳に近いうちで兄の贖罪のことばがひびいた。

「いずみ、ごめん」
「……べつに怒ってるわけじゃない」
「怒ってるだろ。分かるよ。ごめん」

熱は、部屋のほうが階段よりも廊下よりも玄関口よりもはるかに滞っていた。机上に置いたクーラーのスイッチがひどく遠い。泉水の脳裏には、ひとり部屋が欲しいと言ったあの夏の、嵐士のチョコレート・サンデーくさい台詞のことばかりがよみがえっている。