After PRECIOUS DAYS
半田真一の場合2 (松→半→染/八年後)
世界の総人口六十三億人のうちおよそ五十億人が、戦争や飢餓や拷問や差別などの苦しみを抱え生きていると知られているらしい。男は幾度も繰り返したその一節を頭に浮かべて、白黒のボールを高く蹴り上げて空を仰いだ。
「半田せーんせ」
日が沈んだ真っ暗なグラウンドで、リフティングをする男の名前を年の割に甲高く聞こえる間延びした声が呼ぶ。聞き覚えのある、からかうような響きをもったそれに男が眉を潜めて振り返れば、懐かしい人物が全く懐かしさを感じさせない風貌で立っていた。
「誰かと思った」
「ひっどいな半田、元チームメイトの顔も忘れちゃうわけ?」
昔は決して外すことのなった特徴的な帽子はその頭にはなく、代わりに色の薄い傷んだ長い髪は健在だ。一つに縛る髪留めは、新調したばかりなのか嫌に鮮やかで。
「久し振りだな、マックス」
「なんか懐かしいね。その呼び方」
手に持っていたボールを奪われ取り返そうとしたが、松野の、中学生の頃以来だと呟きながら全く腕の鈍らないリフティングに見とれて黙った。こいつは変わらない。器用で自分勝手で要領がよく、そのくせ少しだけ、情に厚くて流されやすい。
「…染岡に聞いた」
「何を」
「半田が、援交なんかしてたくせに突然教師を目指し始めた、って」
松野の言葉に男は思わず肩を振るわせる。そんなこと誰にも知られたくはなかった、と思うのは勝手過ぎることだろうか。ストレートすぎる言葉に傷付いく一方で、ほんの少しだけ、呆れた。この男はオブラートに包むということを知らないのだろうか。幼く見えるがこの男も自分も気付けば年をとり、もう大人という枠にしか入れてもらえなくなったというのに、何も変わらず飄々としていて。
俺はずっとそれが羨ましくて堪らなかったのだけれど、とこぼしそうになった言葉は飲み下す。
「…そうだよ」
松野を前にするといつも口から出るのは薄ら笑いを含んだ自嘲だけだった。昔から、ずっと。
「まだ教免もとってないくせに、バレたら即刻クビになるような過去だけ持ってるんだから本当、馬鹿としか言いようがないよな」
「…いざというときには理事長サマがなんとかしてくれるんじゃないの」
「あの雷門がぁ?」
昔と変わらず高慢な、かつてのマネージャーであり次期理事長でもあるあの雷門夏未が自分を庇うなんて想像できず苦笑しても、マックスは決して笑わなかった。闇みたいに深く虚ろな瞳を細めて、半田の足下にボールを蹴り出す。
「染岡に感謝しなよね」
そう呟いた声音は、突き放すように淡々としているくせに弱々しくて、半田は何かを怖れて目を合わせらずに小さく俯く。
「…してるに決まってんだろ」
高二の冬、ホテルから出てきた半田を見つけて強引に更正させたのは染岡だった。変わり果てた姿にショックを受けても、彼を見捨てることをせず殴って説教をして涙ぐんで励ましてくれた染岡は今、半田と共にこの雷門中に教育実習生として帰って来ている。
感謝していないわけがなかった。あいつがいなければこんな道は決して選べなかったのだ。半田の中で、それは一つの大きな恩義として膨れ上がっていた。お前なら出来るとあいつは言った。俺を信じると円堂は言った。応援していると、かつての仲間は言ったのだ。
その揺るがない支えがあれば、もう一人で歩む未来も、先が見えない将来のために勉強するのも上司の小言も、背負ったリスクも目標の大きさも途方のなさも、何も怖くはない。なにしろ自分には手放しに幸せと言えない代わりに、どうしようもなく泣きたくなるような鮮やかな思い出と夢があるのだ。振り返っても、前を向いても。それは他人からしたら大したことない、ちっぽけな希望に思えるのかもしれないけれど、ちっぽけな自分がこれからの自分を生かしていくのには、十分すぎるくらいに眩しくて嬉しい。
俺は、この場所でまたサッカーをしていくのだ。それがどれだけ恵まれたことかは、自分が一番良く分かっている。
「ねえ半田、ボクを最後の客にする、なんて…どうかな」
これが悪気のある言葉なら殴っていたかもしれないが、マックスの目は迷いと後悔に満ちて半田を見据えていた。思わず怒るタイミングを逃して黙り込む。突拍子もない冗談ではあるが、この男も俺を励ましに来てくれたのだろうかと思うと、実のところ腹も立てられなかった。わざわざこんなところまで、自分を心配して足を運ぶ人がいて、一晩六千円、だなんて、あれは、俺を仲間だと思ってくれている人達への裏切りだった。
「…俺、値上げした。高いからお前には無理だと思うよ」
結局のところ単純なことだ、と半田は思う。自分の価値なんて自分が決めるものなのだ。今がどんなにドン底でも、過去がいかに惨めでも。自分が自分を信じられるなら、これからで良いのだ。あの弱小チームが、まるで奇跡みたいに日本一になったように。何があったとか何をしてたとか、引っ括めて自分だと笑って言えるようになるため、誰かが好きだと言ってくれる自分を、俺が一番に大事にして生きていけば良い。これから。
「僕、弁護士になろうと思う」
「じゃあなおさら、男を買うとか冗談でも言うなよ」
「…半田が裁判起こされても、勝たせてやれるように弁護士になるんだよ…って、言ったら信じる?」
「お前なぁ」
男は思う。途方もない数字を俺が一番実感しやすい形に変えるとするなら、確率的には、世界が一つのサッカーのチームなら11人のうち8人は苦しみを抱えて生きていることになるわけだ。そして俺は、サッカーボールを買うお金と地雷の埋まっていない広い土地を駆け回れる自由のある人間は果たしてどれだけいるのかと考えことが出来る位に恵まれていて、なのにそれに気付いてもいなくて、まるで自分のことだけ不幸みたいに思って馬鹿みたいに膝を抱えて俯いていた。世界の中でたった3人が、チームの大半を占める8人から目を逸らしたらサッカーは出来ないというのに。自分が自分から目を逸らして、誰を幸せに出来るというのか。
「…いくらなの」
「だから高いってば」
男には今、夢があった。この溢れんばかりの幸福の代わりに、仲間と喜びを共有するこの楽しさを、どうか世界の隅々までに。それは確かに途方もなくて、一人ではとても抱えきれない夢ではあったけれど、男はそれを未来へ託すために、ここに来たのだ。
大好きなサッカーをしたい。それを子供たちに伝えていきたい。そして未来へ、希望のパスを繋いでいきたい。きっと自分はそのために彼等に出会ったのだ。
地上最強のサッカーチームに。
「俺の値段は、これ50億個分だからさ」
そう言ってサッカーボールを奪った男の笑顔は、かつて優勝カップ越しに見た空と同じくらい晴れやかで、あの日以上に無邪気に見えた。
作品名:After PRECIOUS DAYS 作家名:あつき