キミと手を繋ぐまで
02.陽だまりに咲く
医務室というのは、忍術学園の生徒にとってはすこしだけ特別な場所だ。
十歳という幼少のころにこの学園に入り、六年間長期の休暇以外は両親にも会えない。一年生二年生は夜になって人の気配がなくなるととたんに人恋しくなるようで、そういうとき夜遅くでも人がいるのは医務室だ。
そしてこの忍術学園という特性上、実技の授業をすることも多い。これは下級生よりは上級生の方が過酷で、比例して怪我をすることが増える。そしてこういうとき、まっさきに向かうのが医務室だ。
心細くなったとき。
怪我をしたとき。
体調が悪いとき。
そういう、ひどく不安で人恋しくなるときに絶対に足を向ける医務室は、親元から離れて暮らしている忍術学園の生徒にとっては特別な場所なのだ。
そしてそこにいる人間というのも、生徒からすればかなり特別だ。なにせ自分が弱ったときにいつも傍にいてくれて、介抱して、必要があれば手を握って話し相手になってくれるのだから当然だろう。
医務室にいつもいると言えば新野先生だが、それとおなじくらい顔を見るのが六年間あの不運委員会に所属し続けた伊作だ。
伊作はもともと雰囲気が柔らかく、朗らかな人柄をしている。いつも笑顔を浮かべているし、ドジで不運なところが逆に親しみやすさになっているのではないかと留三郎は思う。
そんなわけで、六年間あの不運委員会を続けた伊作は学園内でもかなり顔が広い存在だ。当然のように彼を頼って医務室を訪れる下級生も多い。伊作が夜の医務室当番のときは眠れないからと部屋に訪れる下級生がたくさんいるようだ。
かく言う留三郎自身も、医務室には頻繁にお世話になっているひとりだ。
文次郎との喧嘩や日々の鍛錬、修繕をしているときにうっかりと手を滑らして、と理由はさまざまだが、とにかく毎日のように生傷が絶えない。伊作が部屋にいるときはそこで治療してもらうのだが、彼自身がほとんど医務室にいるので、自然とそちらに向かうことになる。
今日も屋根の修繕中に飛び出ていた釘で怪我をしてしまった留三郎は、医務室に行ったほうがいいと言う後輩たちに背中を押されて委員会を抜け、伊作の元へ向かっていた。可愛い後輩の言うことはどうにも無下にできない。
夕飯前の時間だからか、あちこち人の気配で溢れかえっている。そんなときでも、医務室の周辺になれば自然と人の気配は薄くなる。これは医務室がもともと人通りの少ない場所にあることも原因だが、病人やけが人がいるかもしれない場所で騒いではいけないという意識がきちんと生徒内に浸透しているからだろう。
下級生はみんな人のことを思いやれる良い子ばかりだ。そう思うと、あちこちで一番大騒ぎしているのが同級生だという現実にすこし恥ずかしくなる。もちろんここに自分も入るのだが、それは脳内できれいに抹殺しておいた。
医務室の前にたどり着くと、中に人の気配を感じる。間違えることもなく、伊作のモノだとすぐにわかった。なにせ六年間ほぼ毎日のように傍にいるのだから、いまさら間違えることもないだろう。
ぴっちりと閉められている障子を叩いて入室の断りを入れようと右手をあげると、まるでそのタイミングを待っていたかのように中から「留三郎」と声をかけられる。
「伊作?」
「うん。できれば静かに入ってきてほしいんだ」
そう言う伊作の声も、いつもより静かで穏やかな音をしている。急患でもいるのだろうかとあげていた手を下ろし、言われたとおりに息をひそめて障子を横に引いた。
そして室内を見て納得する。伊作が一年生だと思われる子どもを抱きしめて、部屋の真ん中にちょこんと座っていたからだ。
「どうしたの? どこか怪我した?」
「ああ、てのひらの甲をちょっとだけな」
言いながら伊作の傍に座り、傷ついている場所を見せる。伊作はまるで自分のことのように眉をひそめ、それからちいさく「ごめんね」と謝罪した。
「手当てしてあげたいんだけど、いまちょっと」
「いいよ。これくらい自分でできるから。道具の場所だけ教えてくれ」
「あ、えっとね、傷口をちゃんと洗ってきてるなら、そこにある軟膏をつけて包帯を巻いておいて」
「包帯はいいよ。動きにくくなる」
「ダメだよ。まだ委員会の仕事残ってるんだろ。ばい菌が入るから、ちゃんと巻いて」
「はいはい」
医務室で伊作に逆らうのはまさに命取りだ。そもそも彼はこちらのことを思って言ってくれているのだから、変に反発するよりもそのとおりにした方が良い。
さっさと傷の手当てを済ませ、このまま委員会にもどろうかとも思ったがふと思い立って伊作の隣にもどる。彼も留三郎がすぐに委員会にもどると思っていたのか、すこし驚いた顔をしてこちらを見た。
「どうしたの、留さん。まだどこか怪我してる?」
「いや。……ちょっとこのチビ助が気になって」
「留さんはほんと、後輩可愛い可愛いだねえ」
「なんだそりゃ」
「顔に似合わずとっても優しいってこと」
「褒めてねえな。それはわかる」
そんなことないよ。伊作はそう言って、とても控えめに笑った。けれどすこしの振動でもぺったりと伊作にくっついている一年生には伝わったのか、ぐずるような声をあげる。
「おっと、……大丈夫だよ」
伊作は優しく微笑んで、すこしずれた身体を揺することで整える。まるで母親にしがみつく赤ん坊のように伊作の膝の上にまたがり、ぎゅっと胸に抱きついて眠っている一年生の表情が穏やかになった。けれど頬にはまだ涙の跡が残っているし、目元は赤く染まっている。
「あんまり見ない顔だな」
「一年生は人数が多くて委員会に入らない子もいるからね。そういう子はあんまり上級生と接点がないし、留さんは知らないかも」
ねえ、と伊作は眠っている子どもに柔らかく囁きかけて、とんとんとその背中をたたいてやる。手慣れてるなあ、と感心して呟けば、伊作はふふとくすぐったそうに笑った。
「六年間保健委員会にいるしね。梅雨を過ぎるくらいまでは、一年生は親恋しくなる子も多いんだ」
「うちの一年坊主どもは大丈夫そうだけどなあ。あ、でも、平太はたまにちょっとぐずってるな」
「委員会に所属してる子はさ、上級生が気にかけてあげれるから親恋しくなる子も少ないみたいなんだけどね。なにかあれば先輩のところに行く子もいるみたいだし」
「じゃあ……」
「うん。この子は無所属みたい。だからね、たまにこうしてここに来るんだ」
とんとん、と規則正しく一定のテンポで背中をたたきつつ、そう伊作の顔はなんだかとても幸せそうだ。下級生が可愛くてしかたがない彼は、こうして自分を頼ってきてくれることが嬉しくてたまらないのだろう。
ニコニコしている伊作から視線を離し、眠っている一年生を見る。まだちいさくて丸みのあるてのひらが、伊作の服をぎゅっと握りしめている。まるで離れ離れになることを恐れるように。
「おなじ部屋の子と喧嘩しちゃったんだって」
「へ?」
「この子。委員会に入ってない子は頼れる上級生もいないし、友達と喧嘩しちゃうとさ、とたんに不安になるよね。両親も傍にいないわけだし」
「まあ、そうだなあ」
「僕も一年のころ、留さんと喧嘩するたびに先輩のところに行ってたなあって思ったらさ、なんだか懐かしくなっちゃって」