Walk Together, Again. (戦国BSR)
「……そうしたら、瞳を開けたおまえと目があった」
そこまで言い、ようやく家康は視線を三成に戻した。懺悔をし終えた罪人のような、祈りを捧げた信者のような、溜飲が下がったとさえ言える表情だった。
三成は一言も挟まなかった。疲労困憊の所為ももちろんある。だが、家康の言葉の中で語られる秀吉の姿を追うのと、家康の本意を汲み取ろうとするのに必死だった。
日ノ本を統一し終えたあと、秀吉が世界を目指し始めたことを、三成はもちろん知っていた。半兵衛が逝去したあと辺りから性急に事を進めはじめたことも。
「太閤は何を焦っておられる」と胡乱がったのは大谷だった。「まるで命の炎が今にも消えることを恐れているかのようだ」とも。
ひとかけらさえ疑問に思わなかったわけではなかった。だけど敬愛する秀吉を疑うつもりなどない気持ちの方が大きかった。秀吉の言葉に間違いがあるわけがない、ただすべてを盲目的に信じればよいと信じていたし、事実、三成の一番近くにいた大谷はそうする三成を認めていた。
と、そこまで思って、三成は「形部はどこにいるのだろう」というところに思い至った。ゆっくりと口を開く。それ以上に緩慢とした動きで言葉を紡ぐ。
「形部……は、どこ、だ」
切れ切れの言葉だった。しかし、家康は一言さえ聞き漏らさずに受け止めたあと、しっかりと三成の目を見て口を開いた。
「形部は生きている。大阪城でおまえが帰って来るのを待っているぞ」
「…………」
「形部だけではない。元親も、毛利も、西軍も東軍も死んだ者はいない」
「……そう、か」
半兵衛が死に、秀吉が討たれ、家康が離反し、三成のもとに残ったのは大谷だけだった。その大谷がまだ生きている。生きてくれている。その事実が三成の心に広がり、何かあたたかなものを伝えた。
「三成」と、家康が意識を自分へ向けさせる。
「おまえの周りで死んだ者は誰もいない。おまえはひとりになどなっていない」
「…………」
「……秀吉公を討ったワシが言えた義理ではないが、三成、おまえはひとりなどではないんだ。それに」
家康はいったん言葉を区切ったあと、言おうか言うまいか逡巡するような素振りを見せ、恐る恐るというように続ける。
「例え、おまえがひとりになるとしても、近くに絶対ワシがいよう。いつまでだって」
──最愛の人物を殺した男が目の前にいる。この男を殺さなければ死んでも死にきれないと思っていたし、そうしなければあの方が浮かばれないと信じていた。私の生きる目的は、家康を殺すことのはずだった。なのにどうしてこんなにも心が穏やかなのだろう。わずかなさざ波が立っているとはいえ、以前の津波のような、ただ殺したいと願うだけの気持ちのみではなくなっているのは、どうしてだろう。
不抜けてしまったのだろうか、と三成は思う。だとすれば、一度死んだ所為だと思った。
私は一度死んだ。あの暗闇は地獄の釜の中だったのだ。
「都合がいいことを言っているのは重々承知の上だ」
と、家康が口を開く。
「おまえがワシを恨むのは当然だし、ワシ自身それを理解している。その上で、虫のいい話をさせてくれ」
先ほど祈るように組まれた指先が、所在無げに揺れた。家康の瞳から指先に視線を泳がせた三成は、そこではじめてその指や拳が傷だらけであることに気づいた。武器を持たないと言った男の拳は、被害者のように傷ついていた。殴られた相手と同じ痛みを味わうように。同じ痛みを共有した証のようにも見えた。
家康の声がゆっくりと響く。清流のように淀みなく響くのではなく、壁に当たっては右左折を繰り返す迷路のように、ひとことひとことを確認しながら吐き出したような言葉だった。
「おまえさえよければ、の話だが」
と、ようやくそれだけ言ったあと、家康は緊張感を吐き出すような重たく短い息を吐いた。三成はそこで傷だらけの指先から家康の顔へ目を向けた。気恥ずかしそうな、あるいは苦しみを吐き出すような、いくつもの感情が複雑に絡み合った表情でいる家康だったが、唯一視線だけはまっすぐに三成へと向かっていた。逃げたいと思う気持ちを振り払うほどの強い視線だった。簡単にそらせない。
「おまえさえよければ、力を貸してくれないか」
「……力?」
「ああ。ワシはこの戦いに勝利したが、本当に大事なのはこれからだ。だがワシはまだ未熟だ。近くに誰かがいて、共に考えてくれる者がいなければ何も出来ん」
「…………」
「……それを、おまえにやってもらいたい。おまえの力が必要なんだ、三成」
明確な殺意を向けてきた男の力を請うると言った。そんな者が必要だと臆面もなく言い放った。あまりにばかげた話だ。夢物語だ。そう嗤ってやろうとしたが、頬の筋肉が固まったように動かない。
黙ったままの三成をみて、家康はあわてたように付け加えた。
「お、おまえが嫌だというなら無理強いはしない。断るからと言っておまえに不利益を与えるつもりもないから安心してくれ」
焦り、どもりながら話す家康に、三成は今度こそ笑いを見せた。あざ笑うよりも落ち着いた、微笑みにさえ見えるものであったことに三成は気づかなかった。まっすぐに笑顔を見せられた家康だけが気づいた笑みだった。
「私は、」
と、三成がゆっくりとつぶやく。時々疲れたように言葉を区切りながら。
「貴様の望む未来を創る手助けは、しない。私が助力するのは、秀吉様が望まれた世界を、創ることだけだ。もしもおまえが、秀吉様の望まれたような天下を創るというのなら、惜しまず力を与えてやろう」
「……そうだな。方法は違うが、秀吉公もワシも天下を統一することを目的にしてきた。そういう点で言うなら、同じ天下を創りたかった」
なら、と三成は口を開こうとして、口唇がかさかさに渇いていることに気づいた。舌で湿らそうとしたが同じように渇いている。口を閉じ、唾液で舌を充分湿らせてからもう一度口を開いた。
「貴様ごときに、私や、形部の力を貸すのは過ぎたものだが、仕方ない。未熟な貴様に、力を貸してやろう」
嫌みを忘れずに含ませながらそういったが、家康は「そうか」とだけ言ったあと、本当に嬉しそうに瞳を細めた。「ありがとう」と付け加えたあと、まだここに留まっていたいというような表情をしながら、ふいに立ち上がる。三成が視線だけでそれを追うと、家康は傷ついた指先で自分の頬をかきながら、
「仕事を放り出して来たんだ。そろそろ戻らないと怒られてしまう」
「……私は、一言たりとも来てくれなどとは言っていないからな」
「ああ。ワシが勝手に来たんだ。怒られるのはワシひとりで十分さ」
踵を返し、襖へ向かう家康の背中を一瞬眺めたあと、三成は目を閉じた。地獄を見たときと同じ暗闇が眼前に広がる。しかし、どこかぬくもりを覚えるものだった。どうしてだろうと疑問に思った直後、目を閉じた三成の身体に家康の声がかかった。
「近々、形部を呼ぼうと思う。お前と、形部と、三人で話をしよう──昔のように、な」
わかった、と返すより早く、襖の閉じる音が聞こえた。