内緒です
彼の気持ちが知りたい。
「そんなの嫌いに決まってるでしょう」
バサリ、書類を置くと一瞬も視線をくれずカツカツとヒールを鳴らし艶やかな黒髪を靡かせ去っていく妙齢の見目麗しい助手は今己の放った台詞がバサリ、同時に俺の気持ちも袈裟斬りした事には気づいていないらしい。気づかれたところで実弟以外は塵芥にしか見えない彼女の態度は一ミリも変わらないかもしれないが。
人の気持ちは相変わらず難解だ。だからこそ面白いのだが、事務関連のお使いを助手に頼みついでに今日は暑いから帰りがけにアイスでも買ってきてよ俺はガリガリ君の梨味ね君もそれでいいかな?と訊いただけで何故包丁が俺の頬を掠め椅子に突き刺さりそんな台詞を吐き捨てられなければならないのか。解せぬ。
決まってるでしょうと言われても助手の特定の氷菓子への嗜好など俺の知った事では無い。知った事では無いが良くも悪くも弟以外に無関心な彼女が感情を顕にするのは特定の人物に関してのみなので見当はついた。
いたいけな俺の心と頬と椅子を傷つけてくれたお礼に火に油を注いでやろう。
「んー。張間…じゃないか、もう矢霧美香ちゃ」
んだったね、言い終えるのを待たずまたナイフやらボールペンやらが飛んできたので椅子から飛び降りると同時にクルリ素早く回転させ背凭れを盾にして隠れる。ドスドスドスッ豪快な音と共に丁度頭部が在った辺りを的とするならばその中心に凶器が全てヒットしお見事、称賛と拍手を贈りながらも弁償代は君の給料から月々差っ引かせて貰うよと告げるのも忘れない。
「彼女流行りのお菓子とか好きそうだよねぇ」
「…出てくるわ」
どこに用意していたのかガチャガチャと金属の摩擦音が漏れるジュラルミンケースを携えそう告げた彼女の焦点は定まらず殺してやる、ブツブツ呟いて去っていく。こちらの声は既に聴こえて無さそうだったが武運を祈るけど買い出し忘れないでね、とだけ伝えて送り出した。
警察沙汰にでもなれば買い出しなんてどうでもいい程には愉快なので構わないのだが、おそらくまた弟に止められ失敗に終わるだろうし正気に戻った時に仕事を思い出してくれると助かる。
三ヶ月程前、彼女の愛する実弟矢霧誠二と張間美香が所謂デキちゃった結婚してからこんな日は割合頻繁だ。俺としてはストーカーの母と首を愛した父を持ちその父を盲目的に愛する叔母に愛憎を注がれる、そんな歪んだ家庭で子供がどんな成長を遂げるか多少興味があるので無事に産んで欲しくもある。
どちらに転んでも面白い展開になるだろうから時々こうして助手をけしかけ遊んでいるのだが結局他人の色恋事など自分のソレに比べれば些末で、凶器を椅子から抜きながらすぐに思考は勝手に彼へと戻る。
「…結婚ね」
外見が幼いせいかそれとも初心な性格のせいか、彼からは連想出来なかった単語が彼と同年の二人から耳に届いた時は時の流れに少なからず驚いた。驚いて、情けないが少し焦った。
焦ってしまってしまった、思った時には自覚せざるを得なかった。
もう彼にそこまでの利用価値は無いと知りながらも使える時が来るかもしれないと誰にでもなく言い訳をして長年微妙な距離で繋ぎ止め続けらしくもなく滑稽で臆病な己をどこかで自覚し嘲笑いながらも切り捨てないのは何故なのかその全てを見ない振りで誤魔化してきた、のに。
いつからなのかは分からない、何しろ出会った時には彼はまだ高校生で勿論頭ではもう大人だと解っていはいたが俺にとってはいつまでも子供で、いつまでも子供だと思っていたかったのか、それだけ年数を重ねておいてはっきり自覚したのがつい三ヶ月前なのだから笑える。
しかも自覚したところで、らしく無いがどうにも、どうにか出来る気がしない。
彼にはずっと想い人がいる。彼女を人と言っていいのかは怪しいが彼にとってその点は魅力に見えこそすれ欠点には映らないだろう。
彼は、かつて非日常を愛した竜ヶ峰帝人は結果として最終的には日常を選んだが、彼は彼の本質的な欲求との向き合い方を変えただけで欲求自体はおそらく変わってはいない。
俺の知る限りではまだ具体的に告白だの何だのはいやまだなのかよ、こちらが呆れてしまう程に全く何の進展も見られないがお互いに、特に彼からの矢印が彼女に向いているのは明白でママゴトにも見えるがここまで続ければそれも大したものだ。
一方その彼女、妖刀罪歌の宿主である園原杏里は未だ恋愛以前に他者とのコミュニケーション不全の改善と向上に努めているらしいので、黒バイクをあてがって女の異形同士で固まるように仕向けてはいるが所詮恋愛にはなり得ない二人だ。そうなったら俺としては新羅の阿鼻叫喚もついでに拝めそうで万々歳だが確率は低い。
そんな彼と彼女が近年中に成就する確率も低いがお互いがフリーである以上可能性は無くならない。
それに彼は何処までも常識的な癖にごく稀に妙な行動力を見せる時があるので全部すっ飛ばしていきなり求婚しないとも言い切れない。
少なくとも俺と彼が結ばれるよりは確率が高い。自虐的なのは承知の上だ。
「…、」
凶器を強く握りしめて初めて、ずっと持ったままでいた事に気づく。無惨に貫かれた椅子の傷口を撫でながらここ三ヶ月間何度も脳裡を掠める物騒な考えを溜め息と共に吐き捨て、凶器を元の場所に戻した。
俺は人が壊れていく姿を眺めるのが醍醐味の一つであるような悪趣味を持ちその為には多少の犯罪も厭わない、どころかその趣味を活かして始めた仕事は法を犯さずには成り立たない。
とは言っても自分なりの限度が有り足が付いたり直接手を汚すのは好まないが要は社会的法規や倫理よりも己の欲求を最優先するタイプであるからして自然と思考が誘致軟禁に拉致監禁、そんな強行手段でなくとも精神的に追い詰め己だけに依存させる等々手は幾らでも思いつくし考える、のに、実行する気が起きない。
俺が欲しいものは多分それじゃ手に入らない。
椅子が使えなくなったので仕事は此方で片付けるかとノートPCと資料を持ちソファへ移動して、冷めた珈琲はアイスにしようとキッチンへ向かう途中珈琲と云えば、昔一度彼をここに招いた時の事をふと思い出した。
来客用ソファの端に所在無さ気に座っていて、出された珈琲をゆっくりとしかし全て飲み干していった。
後に知ったが子供舌の彼は今でも珈琲に砂糖とミルクが必須らしく、当時の俺は彼をそんな目で見ていなかったと思うが言えばそれくらい出してやったのに。今の俺なら言われずとも出してやるのに。
俺は我慢して苦い珈琲を飲み干す彼の顔が見たいんじゃない。
ただ傍で、甘ったるい珈琲でも飲んで、あの声で俺の名前を呼んで欲しい。
珈琲をマグカップからグラスへと移し変えクラッシュアイスを多めに投入し、少し迷ってから砂糖とミルクを足して一口、試しに喉に通してみる。
「、あっま…」
舌に残る慣れない甘さにやはりらしくない事はするものでは無いなと舌を出して眉を顰めながらも、そのまま持っていきPCを起動して彼との唯一の繋がりであるチャット画面を開く。
この珈琲より余程甘ったるい、都合の良すぎる願いなのは分かっている。
それでも懲りずにまた一口、慣れれば美味いと思う日が来るかも知れない、思いながらもまた眉根を寄せた。