木漏れ日
2.
鏡の前でゆうに20分は中に映る自分と、顔を突き合わせていた。
じっと息をつめて、はさみを持ち、片方の指先で自分の前髪をつかんでいる。
(失敗しないようにしなければ)と思うのだけど、思ったら余計にはさみが震えた。
……別に緊張しているわけではない。
ただ、自分はあまり器用なほうじゃなかったのでもし失敗したら、そのあとのことを考えて二の足を踏んでいた。
ゴイルにたのもうかと思ったが、あいつのでっかい指先ならば、もっと取り返しがつかなくなりそうで、やめた。
次の日曜日はお気に入りの床屋に行こうと思ってはいるが、その前に少しだけ髪先が目に入って痛いので、軽く切ろうと思ったんだけど……
覚悟を決めて、はさみを持ち直したときに、当たり前のようにハリーがノックもせずに部屋になだれ込んできた。
「やっとね、ちびっ子たちから開放されたんだー!」とか言いながら。
その突然の来訪にびっくりして、危うく前髪をザックリと切りそうになる。
僕は焦って、手に持ったはさみを取り落としてしまった。
「ちゃんと部屋に入ってくるときは、ノックぐらいしろと、あれほど僕が言っているのが、まだ分からないのかっ!!」
振り返り、相手をにらみつける。
ハリーは少し驚いた顔で、僕を見た。
「えっ?何かしてたの?はさみなんか持って」
「……お前には関係ない!それより勝手に入ってきて、マナー違反だ。さっさと自分の寮にでも帰れっ!!」
「夕食までまだ時間があったから、宿題を教えてもらおうと思ったんだけど……」
「宿題と言えばいつも部屋に入れると思っているのか?―――まったく!」
じろじろと僕のことを見て何かを考えていたみたいだったけど、突然「あーっ、分かった!!」と大声を出した。
「髪、切りたいんだねっ!前髪伸びすぎていたから」
「……そうだが」むっとした声で答える。
「なんだー、言ってくれればいいのに」とご機嫌でニコニコしながらにじり寄ってくる。
「―――で、どのようなヘアースタイルがお好みで?」
「結構だっ!」
「安心して。僕、こういうこと上手なんだ」
笑いながら、嬉しそうに髪を撫でる。
「サラサラしているね。」
「お前は年中その髪型だな。飽きないのか?」
「……ああ、これ。ずっとこのままだよ、多分。短く切っても一日でこの長さまで伸びるし、これ以上も伸びない。多分あいつの呪いじゃないかなー」
ハリーは自分の髪との手触りを確認してのんびり答えた。
自分に「呪詛」をかけられて平気な顔をしていられるのは、この魔法界でもそう多くはいないだろう。
僕はじっと相手を見つめた。
「何?」という感じで、ハリーが見つめ返してくる。
「おまえは怖くないのか?自分のからだに呪いが込められているのに」
「……ああ、物心がついたときからそれが当たり前だし、自分ではどうしようもないからね。ひどく額の傷が割れるくらい痛いときもあるし、よく眠っていると悪夢もみるよ。もしかして、まだ知らない呪いとかかけられていて、ある日突然何かが起こるかもしれないと、不安になるときもあるけど………。まぁでも、いろいろ経験したから、もうこういうことは、悩まないことに決めたんだ。悩んでも、どうしようもないことが多いからね……」
ハリーは頭を振って、視線を下に落とした。
……時々、ハリーには絶対にかなわないと思うときがある。
いくら勉強が出来ようが、血筋がよくても、お金を持っていても、全てがかなわないと思い知らされる。
もし僕がハリーみたいな運命を背負わされたら、とてもじゃないがそんなもの、絶対に受けとめられやしない。
僕は唇を噛むと、ドンと相手を突き飛ばした。
突然の行動に受身も取れずに、「ぐはっ!」と言いながら、ハリーが床に尻餅をつく。
「―――えっ?……え゛え゛っ?いったい何?僕、なにか、またしたの?―――っていうか、今日は放課後のことといい、よくドラコに突き飛ばされるんだけど……。あー、いてぇー……」
ハリーは痛そうに打った腰をさすっている。
僕はその背中をグイグイ押して、ドアのほうに引っ張りだそうとした。
「出て行ってくれ。今、すぐにだ。―――ついでに、これからもう絶対に僕の部屋に来るなっ!ああ、それから、もうお前の部屋にも遊びに行かない!―――じゃあなっ!」
満身の力を込めて相手を押し出そうとする。
体格的にはほとんど僕たちに大差はないので、それは容易かと思ったけどそうでもなかった。
派手にハリーが暴れて、僕の腰にすがり付いてきたから、こっちはたまったものじゃない。
「放せ!」
「いやだ!理由を言ってよ」
「ワケなんてない。もうおまえと友達ごっこなんか、真っ平だ。出ていけ!」
その答えに、ハリーが必死の形相で、僕に話しかけてくる。
「理由がなきゃ、放さない。絶対に放さないからね。どうしてか、理由を言ってよ。直すから。………えっと、まず先に謝るよ。ごめんなさい!なにか君を怒らすことをしたんだろ?……僕は本当に気が利かない性格だから……。あー、本当、僕はバカだ。いつもいつも、大好きなドラコの前だと失敗ばかりして……。僕は―――。僕は……。」
ハリーは顔をゆがめて嗚咽する。
……分からない。
僕にはハリーの気持ちが、全く理解できなかった。
なんでコイツはこんなにも、僕なんかに必死になるのだろう?
魔法界のハリーはやたらと、ヒーローだった。
数々の輝ける功績を残している。
スニッチをつかんだ顔も、敵を倒して傷だらけで帰還したときも、たくさんの喝采を浴びて、それを誇らずに受け止めて、どんな苦難も恐れない。
ハリーは自分とは全くちがう、選ばれた人物だと思う。
僕なんか、代々続く家系を相続するだけだ。領主となるにはそれなりの度量と才覚も必要だが、ハリーの運命に比べたら、目をつぶってもできそうなほど簡単なことのように思えてくる。ただ敷かれたレールに乗って、その運転さえ誤らなかったら、それでいいだけだ。
だけどハリーは僕を好きだと言ってくる。何が好きなのか、分からなかった。
僕は何も持っていないじゃないか。
―――僕には、本当に何もない。
それなのにハリーはいつも、僕の前では笑ったり泣いたりして、大忙しだ。
「ありがとう」と言うと飛び上がるほど喜んで、僕を抱きしめると本当に幸せそうな顔をする。
何がよくて、こんなにも夢中になっているのか、僕には分からない。
だから時々僕は変な勘違いをしてしまいそうになる。
(ずっとこのままいっしょにいられるんじゃないか)なんて。
ハリーよりバカなのは自分自身だ。
そんなことは絶対にありえない話だ。
ハリーと僕とでは、今自分たちが立っている位置すら、まったく別々じゃないか。
ホグズミードや漏れ鍋でも、行ったらよく分かるだろう。
みんながハリーをジロジロと見たり、頭を下げる人や、涙ぐむ人すらいる。
ハリーはそれが嫌でうつむいたり、傷が見えないように帽子を被ったりして隠そうとしているが、それだけ顔が知られている証拠だ。
隣にいる僕に注意を払う人など、ひとりもいない。
別に僕は有名になりたいとか、目立ちたいとかは思ってもいない。
ただそういうとき、冷めた自分の声が聞こえるんだ。