カヌチ異伝 Eternity Yours
「俺が入って、直接見る。お前達はここで追認してくれ。一頻り調べ終わったら、即、そこの“バルハラへの道”から脱出だ」
よろめきながら立ち上がったアズハが、エスドの腕にすがりついた。
「止めろ! すぐに脱出しないと危険だ! もし、何かの罠だったら……」
エスドはアズハを見て、微笑んだ。
しかし、つと、視線を外してしまう。
腰具帯から携帯計器を取り出し、起動させると、画面を確かめ、穴にかざした。
「君の意見を無視して悪いが、俺は大丈夫な気がしているんだ。だから俺を止めたいなら、こいつが値が出すまでに、裏付けの効いた説明を聞かせてくれ」
計器が音を立て、分析値を表示する。
光が差し込まないせいか、気温がやや、低くなっている。
しかし少なくとも、既存のもので毒性の強い気体が充満しているような事は、なさそうだった。
「よし……行くぜ」
エスドはアズハの手を、優しく、しかし決然と振り払った。
ヘスクイサは目を閉じ、軽く頷き、エスドの背をどやしつける。
にっこり笑ったエスドは、汗を拭うと片目を閉じ、背中に垂らしていた防護帽布を引っ被った。
二度三度跳ね、肩と腕を軽く伸ばし、屈伸する。
腰具帯に差し込まれた道具達が、涼やかな音を立てた。
「エスド!」
アズハの制止を置き去りに、エスドは、そのままするりと、穴の向こうへ潜り込む。
白輝の回廊から、漆黒の空間へ。
同時に強まる、平行調律の魔術。
三つの異なる知識と眼差しが、同じ事象を感じ取り、理解すべく咀嚼していく。
望み焦がれた未知への挑戦が、たった今、始まりを告げた。
着地と同時に、灰白の靄が立ち上がり、神楽のように舞い踊る。
エスドは瞬時に体勢を整え、周囲を見回した。
穴の入り口から覗いた時は、相当な広さがあるように感じた。
しかし実際に踏み込んでみると、結構そうでもなさそうだ。
光量過多の回廊から突然飛び込んだせいで、黒一色の空間に、光暈の残像がぽわぽわと踊っている。
開けていた目を閉じ、今まで閉じていた方の目を開けた。
絹引くように静まっていく靄に、そっと手を彷徨わせる。
回廊で嫌という程浴びせられてきた砂とは違い、より細かく、妙な粘りを帯びていた。
携帯計器を作動させたエスドは、投光桿をかざす。
壁面、天井、床――照らしてみたが、やはり光を吸い込んでいく様で、手元の輪郭の識別程度が精一杯だった。
糸引くような奇妙な暑気が、全身にねっとりと絡み付く。
防護帽布を通してさえ、呼吸自体がうっとうしい。
強引に息を整えたエスドは、頭の中の調律の糸をまさぐった。
『ヘスクイサ、アズハ……見えてるかい?』
その言葉を、脳裏に受け取った瞬間。
黒い穴のその前で、アズハとヘスクイサは顔を見合わせ、同時に安堵の息を吐いた。
目を刺す輝きと、うだるような暑気が、一瞬、遠退く。
口角を引き歪めて、ヘスクイサは呟いた。
「何も見えんぞ。真っ暗じゃないか」
「正確には、投光桿の光と靄しか見えないな。それじゃあ何が何だか……」
目尻を拭い、アズハが呟く。
くく、と苦笑が返ってきた。
『確かに、な。とりあえずは、この靄の分析をしてるけど……あ、出た』
アズハは、携帯計器を開いた。
伝達機能を通じ、エスドの携帯計器が弾き出した解析情報を受け取り、確認する。
「加里、苦土、生石灰……? 建材の配合比では、ないと思うが……」
ヘスクイサをちらり見ると、彼も同じ事をやっていた。
「有機物を燃やした灰だろう。なんでそんなものが?」
『ひょっとして……聖灰?』
「神王の?」
『あはは、まさかね……多分、神王の追葬者のものだと思うけど』
と、突然。
遠くで何かが、ざあっと鳴った。
アズハの肩が、ぎくりと震える。
その感触は違える事無く、闇中のエスドの頭に、印象と共に伝わった。
「うっ……ま、また地震かよ!?」
背後を振り向く。
白い光の中で、必死の形相を浮かべたヘスクイサとアズハが、こちらを見ていた。
砂煙にむせたのか、短く咳き込んだヘスクイサが、呼吸を整えつつ呟く。
『エスド、頃合いだ、戻れ。これ以上は……』
「ちっ!」
ヘスクイサの言を、エスドは舌打ちで遮った。
空間の、中央と思しき位置まで進む。
退く気は無かった。
まだ、何も判っていない。
せめて一目、棺だけでも確認できなきゃ、次の機会につなぐ事すらできなくなる。
アズハの叫びが、頭に奔った。
『エスド、何をしてる! 神王の棺だぞ!? そんな狭い空間に、在る訳ないじゃないか!!』
「ああ、確かに棺はない。でもケメカの葬様式は、ウイズス地方の樹葬様式を汲んでいる。床に棺ごと、塗り込めたのかもしれない」
きりきりと引き締まる胃の腑を堪え、できる限り手早く、丁寧に、床をなぞった。
ここに接触性の罠が仕掛けられていたら、もう回避の手段はない。
しかし僅かに沸き上る靄の下からは、今まで見た事も無い象形模様が、次々と浮かび上がってきた。
そしてそれらを全て抱き取るかのように囲む、黒い羽模様。
「おい、これは何だ?」
『判らん。俺も初めて見た……って、おい、いい加減に』
「まあまあ、そう焦るなって」
エスドの手が、さらに動く。
模様全体が、はっきりと見え始めた。
血の脈動が、痛い程に体中を暴れ打つ。
思えば何時も、こんな綱渡りをしてきた。
精密な理論に隠されたでたらめを見抜けず、紛争地域の不正規戦闘兵に殺されそうになった事がある。
その時助けてくれた先達は、一緒に極点観測地点に向かう途中、冬ごもり前の、飢え切った獣に襲われて死んだ。
真白な雪上にぶちまけられ、湯気を上げていた血溜まりの色を忘れた事は、片時も無い。
キリヒ国のイリ山脈で、少数民族の言語体系を調べていた時は、足場が崩れて崖から滑落。
二度と体は動かないと、医者から言われた事もあった。
そして今また、きしきしと軋む一瞬を、爪先走りで疾走している。
舌先で唇を拭ったエスドは、防護帽布を跳ね上げ、闇中に素顔を晒した。
さあ、俺に教えてくれ。
君の事を知りたいんだ。
君は一体、何なんだい?
石畳にひれ伏し、エスドはその目に、脳裏に、象形模様を焼き付けていく。
と、突然。
回廊側から穴を覗き込むアズハの背筋が、つと伸びた。
エスドを通じ、頭に流れ込んでくる、象形模様の配列。
そして先程の、謎の灰の成分。
そして、“追葬者”の言葉。
何かが急速に、瞬きながら符号していく。
かさかさに乾いた喉が、ぎしりと上下に蠢いた。
そうだ。
私は以前、これと同じものを見た。
どこで?
いや、同じものだったか?
自分が自分を、詰問する。
何故、素直に同じと言い切れないのかは、容易に判った。
もし今思いついたものが、ここにあるものと同質だった場合。
何故ここに至るまで、こんなに完全な“逃げ道”が、幾つも用意されているのだろうか?
「アズハ?」
ヘスクイサが振り向いた。
アズハは、濡れた前髪を掴んだ。
脳裏の記憶が激しく瞬き、一つの事象を組み上げていく。
「同じもの……いや、似たもの、だったか……?」
『アズハ、どうした?』
作品名:カヌチ異伝 Eternity Yours 作家名:澤_