【FY】詰め合わせ
夜更けにトパーズ色
同性である後輩のバスルームの勝手を知っていると言うのは、いささか問題ではないだろうか。
頭にふっと湧いたそんな疑問を、小さい頃から面倒を見てきた訳だし、とシャンプーの泡と共にシャワーで洗い流し、有楽町は湯気にけぶる浴室内を見渡した。
元々一人で使う事しか想定されていないバスルームは狭く、左右から圧迫感すら感じる程だったが、ユニット式ではないだけまだマシだろう。銀座の部屋のものはえらく広い上に浴槽が猫足だなんて事を小耳に挟んだ事があったが、見た事はないので実際の所はどうなっているのか分からない。
その点副都心の部屋のバスルームは有楽町の部屋のものと全く同じだったが、小さなラックに並べられたシャンプーやボディソープは自分が愛用しているものとは違うものだった。
有楽町はメーカーやブランドにこだわりがある人間ではないから、さして使用に躊躇ったりはしない。普段よりも髪が絡まったりしなければ、特に気にする事はない。
ただ、ボトルの類が並ぶラックの隅に見慣れないものがあるのが気になった。今までだって副都心の部屋で入浴した事はあったのに今日初めて気付いたのだが、なぜだかボトルに隠れるように一羽のアヒルのオモチャがこちらを見ているのだ。あの、よく子供が浴槽に浮かべるような、ゴム製のやたらに黄色いアヒルが。
「お邪魔しまーす」
「うわああっ!?」
不意にドアが開いて、副都心がにょっきりと顔を出した。
「何ですか先輩、奇声上げちゃって。近所迷惑ですよ」
今何時だと思ってるんです、と続ける後輩に訝しげな視線をくれてやりながら、バスタブへ逃げ込む。慌てて沸かしたせいで湯の温度は少し温かったが、疲れた体には丁度いいくらいだった。思わず、口からふうと溜息が漏れる。
「お風呂に浸かって溜息とか、先輩も年ですねぇ」
「うるさいよお前は」
大体誰のせいで疲れていると思っているのだ。昼間は何かと手間と迷惑ばかり掛けて、夜は。
「……お前、それ前からあったっけ?」
「それ、って。指示語だけじゃ分かりませんよ」
「それ。そのアヒル」
余計な事を思い出しそうになった頭をタイル張りの壁に押し付けて、例のアヒルを指差しながら示す。髪を洗い出した副都心はその指の指す方向を視線で追って、ああ、と頷いた。
「ありますよ。気付きませんでした?」
「今気付いた。つーか何だよそれ、子供かお前は」
泡で濡れた副都心の手がアヒルを掴んで、浴槽の有楽町まで腕を伸ばす。渡されるがままに受け取ったアヒルはやはり一般的に思い浮かべるものよりもやたらに黄色味が強く、頬に塗られた赤い丸すらどぎつい色を放っていた。
「買ったんですよ、可愛いでしょう」
「まあ、可愛いっちゃ可愛いけど」
くちばしを尖らせた顔と丸いボディは、そう評して間違いないだろう。色だけは無駄に濃いが。
他にする事もこんな深夜に副都心とする会話も思い付かないので、彼が体を洗っている暫くの間アヒルをためつすがめつして観察していたのだが、シャワーの音が止んだのに鮮やかな黄色から顔を上げると、副都心がこちらをじっと見つめていた。
「ふく……?」
「キスしていいですか、せんぱい」
このチャコールグレーは何を言っているんだろうか。さっきまで何も聞かずに人の体をひっくり返していた人間が、キスの許可?
水を滴らせる副都心の顎先が近付いて、至近距離でその目が悪戯げに笑う。その目の意図する所を汲んだ有楽町は思わず身を疎ませたのだが、しかし副都心の唇が鼻先を通り過ぎて手元へ降りたのを見てぎょっと目を剥いた。
副都心は、アヒルにキスをしていた。
「は………?」
「やだなぁ先輩、自分だと思っちゃったんですか? アヒルの方ですよ。『せんぱい』って言うんです、それ」
「へ……?」
「漢字じゃないです、ひらがなです」
「あぁ、なるほど……っておま、副都心!」
いけない、思わず頷きかけてしまった。
怒りなのか羞恥なのかよく分からないものに任せてアヒルを投げつける。頭を狙ったつもりのそれは生憎と副都心にキャッチされてしまったが、怒鳴り声を浴室に反響させるのは止めなかった。
「何勝手に変な名前付けてるんだよ!」
「だってほら、『せんぱい』を見て下さい。体の色が濃くてゴールドっぽいでしょう」
「オレのラインカラーは黄色じゃないと何度言えば……!」
「細かい事気にしてると余計に胃が荒れますよ」
「誰が………!」
誰が怒鳴らせていると思っている。誰が自分を振り回した挙げ句引っ掻き回していると!
そう続けようとした口に何か柔らかなものが触れたので、有楽町は言葉を飲み込むしかなかった。今度こそ、眼前で副都心が笑う。
「安心して下さい、先輩には許可なくしますから」
「いや、それ余計厄介……」
「じゃあ今度から舐めたり噛んだりする時は許可取った方が」
「ああああ! 何でもない、いい、いつも通りでいいから!」
何かまずい事を言いかけた口を両手で押しやって叫ぶと、掌の向こうからにやりと曲がる口の端が見えた。
「いつも通り、ね。分かりました」
温かな湯の中にいるのに冷や汗が背筋を流れる。ついでに言えば、顔がやけに熱い気がする。
「………もういい」
色々と抗うのも面倒だった。疲れているし、腰が重いし、明日も朝からダイヤ通り走らねばならないし、副都心は憎たらしいがアヒルが可愛い事には変わりない。
脱力した顎がバスタブの縁に乗る。そこにまた副都心の唇が近付いて何の違和感もなくキスを受け入れている、その事もきっと明日以降変わる事はないだろう。それを一般的にどう言う関係と表するのか、それを考えるには集中力に眠気が勝っていたけれども。
この夜の出来事のせいで後日とんでもない墓穴を掘る事なんて勿論予想出来るはずもなく、有楽町は水に濡れた副都心のピアスが光るのをうっすらと開いた目で見つめていたのであった。
(「深さ40メートル弱の墓穴」after / 20090831)