BSRで小倉百人一首歌物語
第38首 忘らるる(小十郎と梵天丸)
激しい雨が、深緑の葉を濡らす。遠くで雷鳴が聞こえた。おそらく、通り雨だろう。
「…少し雨宿りしていくか」
独り呟いて、小十郎は木陰へと逃げ込む。あとどれくらいで止むだろうか。暗くなる前にはこの峠を越えてしまいたいが、この雨の中進むのは危険だ。
空を見上げると、分厚い雲が垂れ込めている。どうやらしばらくは止まないらしい。小十郎は溜め息を吐いて、力なくその場に座りこんだ。
あの日もちょうど、雨が降っていた。昼過ぎから降り始めた雨は、暗くなる頃にはかなり勢いを増していた。人目につかないようにするならば、今日しかあるまい。決意が鈍る前にと、小十郎はその屋敷を後にしようとしていた。
「出ていくのか、小十郎」
不意に掛けられた幼い主の声に、小十郎は驚いて振り返る。視線の先には、小十郎を見つめる梵天丸の姿があった。片方だけしかない目には、不安の色が揺れている。
「梵天丸様…」
よりにもよって、最も会いたくない人物に会ってしまうとは。小十郎は自らの失態に歯噛みをした。
小十郎が伊達の下を去ろうと決めたのは、いつの間にか降り積もった迷いと、先行きへの不安からだった。勿論、2代に渡り忠誠を誓った主人に恩を仇で返すようなものだとは解っていたが、それこそが小十郎をここに引き留める唯一の枷であったとも言える。
だが、まだ年若い小十郎の心には、忠誠を誓いつつもどこかで、自分の力をもっと認められたいという思いがあった。今の主である梵天丸が伊達の跡継ぎとなれる保証はどこにもない。ならば。
残される幼い主が可愛そうでない、と言えば嘘になろう。小十郎は自分を慕う幼子を何の痛みもなく置いていけるほど冷たい男ではない。だからこれは、小十郎にとっても身を切られるような決断だったのだ。
軒下から小十郎を見つめる梵天丸の瞳は、相変わらず心細そうに揺れている。こうなってはもう、出ていこうが行くまいが、梵天丸がひどく傷付いたことに変わりはない。取るべき行動を思案する。先に口を開いたのは梵天丸の方だった。
「行け、小十郎」
「しかし…」
「もういい」
そう言って力なく笑った。その言葉が、表情が、彼の失望を全て物語っているようだった。居たたまれなくなった小十郎は、何の言葉も掛けられないまま、彼に背を向けたのだ。
雨はまだ止む気配がない。梵天丸の絶望に満ちた瞳が頭を離れなかった。泣いているのは誰の心か。
こうして一人でいると、小十郎の胸には梵天丸と過ごした日々が去来する。最初こそ警戒心の塊のようだった梵天丸が心を開いてくれたこと。初めて笑顔を見せてくれたときのこと。だが小十郎は、その素直な好意と信頼に応えることがずっとできなかった。自らの進退のことが気掛かりだった、ただそれだけのことで。
梵天丸の右目を切り落とした時のことを思い出した。あの時の覚悟は紛い物だったのか。この御方の一番近くで生きていこうと決めた、あの時の覚悟は。全幅の信頼を寄せる瞳と、絶望に満ちた瞳が交錯する。そんな目をさせるつもりでは、なかったというのに。
……小十郎!
見たかったのは、爛漫に笑う幼子の笑顔だった。確かに小十郎はあの時間の中で、満たされていたのだ。
不意に、雨の中一人で泣いている主の姿が思い浮かぶ。もういい、と呟いた彼の心中はいかばかりか。小十郎は堪らず、濡れるのも構わず走り出していた。それは衝動的で、後先など何も考えていない行動だ。戻ってきた小十郎を、梵天丸や周りの者たちが簡単に許すとは思えなかった。だが、自分の身がどうなるかなど、もはやどうでもよかった。自分可愛さに出奔したというのに、これでは何とも滑稽である。
小十郎はひたすらに駆けた。駆けたところで、ここから伊達の屋敷までにはかなりの時間を要する。それでも、一刻も早く、戻らなければならないのだ。孤独な幼子を、この胸に抱き締める、ただそれだけのために。
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
作品名:BSRで小倉百人一首歌物語 作家名:柳田吟