BSRで小倉百人一首歌物語
第46首 由良のとを(小十郎と佐助 サナダテ前提)
中天にかかる月が、冴えざえと辺りを照らす。光は小十郎のいる部屋にまで射し入ってきて、小十郎はその冷たさに、小さく身震いをした。書き物をしていた筆を置いて、主のことを考える。情人と甘美な時間を過ごしている頃合いだろうか、と思い当たって、小十郎は重いため息をついた。
政宗と、甲斐の虎の後継と目される真田幸村とが親密な関係になって随分時が経つ。城中でも、政宗をよく思っていない者たちがよからぬ噂を流しているのを耳にすることが多くなっていた。黙らせるのは難しいことではない。だが、何よりもその噂が事実に他ならないということが、小十郎の気持ちを重くさせていた。反勢力や敵国にその弱味を嗅ぎ付けられる不安もあるが、それ以上に気がかりなのは政宗自身の心である。政宗とて、今は同盟関係にあるとはいえ、いずれは天下をめぐって雌雄を決さねばならない時がくることを、当然理解しているだろう。終わりが見えている関係を深める虚しさを抱きながら、それでも幸村を切り捨てることができないという葛藤が政宗を苦しめているのは間違いない。長く共にいた小十郎だからこそ、それに気が付いてしまう。
関わりを絶てと諫言するのが、副将としての正しい行動なのかもしれない。関係を終わらせることで政宗は少なからず傷つくだろうが、それも天下を目指し、皆を導く者が負わなければならない傷なのだと、頭では理解することができる。だが、小十郎の私的な心がそれは駄目だと悲痛な声を上げる。主がようやく見つけた自分に帰ることができる場所を奪うことは許されないのだと。
ふと人の気配を感じて、天井の方に目を向ける。この状況でこのようなことをする人物に、小十郎は一人しか思い当たらなかった。
「おい、猿飛。そこにいるのは分かっている」
「あらら、ばれちゃった?」
「ぬかせ。気配を断つ気もなかっただろうが。降りてこい」
「はいはい、っと」
気だるそうに返事をしながら、やたら目立つ格好をした武田の忍は文机に向かう小十郎の背後に降り立った。小十郎は座したまま佐助の方へ向きなおる。佐助もその場に正座して、二人は向き合うかたちになった。
一度佐助ときちんと話がしたい、と小十郎は常々考えていた。佐助もおそらくあの二人の関係について思うところがあるのではないかと感じていたからだ。いや、きっと思うところという程度ではあるまい。佐助が政宗のことをひどく嫌っていることは、小十郎にもよく分かっていた。
小十郎が何も言わないので気まずく感じたのだろうか。佐助の方から口を開く。
「独眼竜って、あれの時はちょっとかわいいんだね」
「…殺されてぇのか」
小十郎がその身に雷を纏うのを見て、佐助は後ずさりながら慌てて言う。
「わわ、冗談だって!見てない、一切見てないしこれから先見る気もない!」
「ならいいんだが」
小十郎が怒りを収めた頃合いを見て、姿勢を正した佐助が再び切り出す。
「でも、真田の旦那と一緒にいるときの独眼竜は、やっぱりちょっと普段と違うよ」
「ああ、そうだな」
真剣な面持ちの佐助の言葉に、小十郎は短く返す。今はただ、佐助の言いたいことを言わせておけばいい。どちらが話を始めても、結局帰着するところは同じはずだ。
「片倉の旦那はさ、正直なところあの二人のこと、どう思ってるの?このままでいいと思う?」
思いがけず直接的に問われ、小十郎はしばし思考をめぐらせる。この忍に、本心を打ち明けてもよいものだろうか。小十郎の答えを待つ佐助は視線を彷徨わせ、どこか落ち着かない様子に見える。普段は動揺を見せない佐助がこのような態度を取るのは、やはり佐助もあの二人のことが気掛かりで仕方がなかったからなのだろう。佐助は充分に手の内を晒した。ならば自分だけ隠し続けるわけにはいかないだろう。心を決めて、小十郎は重々しく口を開く。
「このままでいいとは思っちゃいねぇ。だが…」
「無理矢理引き離すのも気が引ける」
遮って放たれた佐助の言葉に、小十郎は思わず目を見開く。小十郎の迷いを言い当てた忍の観察力に恐怖すら感じた。言葉が継げないでいる小十郎を見つめる佐助の視線が、冷たい刺のごとく全身に突き刺さる。見抜かれていると言う思いが、小十郎の思考を乱す。
沈黙をどのように受け止めたのか。佐助は小さくため息をついてから、再び語り始める。
「分かるよ。俺も同じだから」
「同じ?」
小十郎は思わず尋ね返す。政宗のことを嫌っている佐助のことだから、きっと有無を言わさず引き離したがっていると考えていたからだ。
俄に月光が翳る。おそらく、雲が月を隠してしまったのだろう。行灯に照らされる互いの顔は先よりも暗く、心が読めない。
「独眼竜のことは嫌いだ」
ぽつりと佐助が口にした言葉は、小十郎に向けたものではなく、自身の心を確かめるような響きを帯びていた。小十郎はそれを黙ったまま聞く。
「あの人は大人ぶってる子どもだから。俺は真田の旦那には、そんな風になって欲しくない」
思った以上に佐助が政宗のことをよく見ているのに、驚きを隠せない。佐助が政宗を嫌っているのは厭と言うほど知れたことであったが、小十郎はずっとその原因が政宗の傲岸さにあると考えていたのだ。
「でも旦那はたぶん、あの人のそういうところに惹かれている。それに、二人でいるときに様子が変わるのは独眼竜だけじゃない。真田の旦那も、独眼竜といるときは表情が違う。敵を倒す顔とも、お館様といる時の顔とも違う。俺様の見たことない顔だ。俺は旦那が変わっていくのが恐ろしい。けど、旦那が武人として大きくなるためには必要なことなのかもしれない。だから俺様には、判断できない」
苦しげにそう吐き出して俯く佐助の表情は苦渋に満ちている。おそらく佐助の目に映る自分も同じ面持ちなのだろうと小十郎は思う。正しい道を選べないのは、当事者だけではないのだ。先に起こることなど、誰にも知ることはできない。さながら今の自分達は、楫を失って大海を漂泊する一艘の舟にすぎないのだ。
「お互い苦労するな、猿飛」
小十郎の本心からの言葉に、佐助は静かに頷く。これほどに心を悩ませるのは、主を強く想うからこそのことだ。同じ煩悶を抱えている者がいるというだけで、僅かに救われた気分になる。それで事態が解決に向かうわけでは、決してないのであるが。
翳ったときと同じように、月は唐突にその光を取り戻した。月明かりが照らす佐助の顔はいつもと変わらない、掴みどころのない薄笑いで、先程までの出来事が夢幻だったのではないかと錯覚する。
「今日は喋りすぎたね」
それだけ言い残して、引き留める間も無く佐助は小十郎の目の前から姿を消した。後には濃密な沈黙だけが残り、その空気から逃れるように小十郎は障子戸を開ける。皆の意思とは無関係に、いずれ決断を迫られる時が来るだろう。その時が訪れるのが、できるだけ先のことになれば良いと、願わずにはいられなかった。
由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな
作品名:BSRで小倉百人一首歌物語 作家名:柳田吟