メロヘロ
「ふざけんなよ」
先ほどまでが、とびきり機嫌がよさそうだっただけに、余計に榛名の怒りが強く阿部に伝わってくる。榛名は阿部の右腕をつかんで、言った。
「好き、つったのはお前のほーだろ!」
一瞬で、阿部の顔が紅潮した。体の中をすごい勢いで血液が駆け上がっていく。
「そ、れは……」
阿部は顔が上げられなくなった。榛名の言葉は嘘ではない。確かに、告白をしたのは阿部の方なのだ。その時のことを思い出すと、セックスをしている時などよりも、よほど恥ずかしくなってしまう。
だって、自分が、だ。こんな、そういう言葉がまるで似合わない自分が、誰かに向かって、それも、榛名に向かって、好きだと告げたなどと、思い出しただけで顔から火が出そうだった。
口ごもったままの阿部を、どう思ったのだろうか。榛名は、つかんでいた阿部の腕を離して、それからもうほとんど溶けていたアイスクリームの残りを一気に飲み込んだ。
「ごちそうさまでした!」
そう言うと、駅の方へ向かって大股で歩き始める。阿部は、ようやくそこで顔を上げることができた。榛名の背中がどんどん遠くなる。怒っているのだ、と少しとがらせた肩が言っていた。
行ってしまう、と思ったら、胸がぐうと苦しくなった。同時に、怒っている榛名の背中が見覚えがありすぎて、いつものことだと諦めている自分もいた。このまま榛名は行ってしまって、自分は少し遅れて歩き出すのだ。駅について、お互いに反対方向の電車に乗って……。先のことは阿部にはありありと想像がついた。
それなのに、想像と違うことが起こった。ずいぶん進んだところで、榛名がくるりと振り返ったのだ。ずっと背中を見ていた阿部は、急に榛名の目を直視することになって、息をのむ。
榛名は、タカヤ、と呼んだ。早く来いよ、と急かす言葉を投げたくせに、阿部が一歩を踏み出して、榛名の横へたどり着くまでの間、しんぼう強く待っていた。
それから二人は、言葉もなく、駅まで一緒に歩いた。今までのように、ただ勢いにまかせて喧嘩別れしてしまった方がよほど楽だった、と思える、長く重い道のりだった。息苦しくて仕方がない。それなのに、どうしたって、一緒に行かずにはいられなかったのだ。気まずさ以上に、榛名のことが好きだった。
榛名とは乗る路線が違うために、ホームで分かれた。じゃあ、と短く告げた榛名の声には、もう怒りは滲んでいなかったが、硬くしんとした響きがあった。
「あの」
どこからか、電車の到着した時のメロディが聞こえてくる。今の榛名と阿部の間には、まるで似合わない楽しげな音楽だった。
「別れるとか、考えてません」
阿部は、やっとのことで、それだけ言った。ホームに滑り込んで来た列車が風を巻き起こして、二人の体を煽っていく。榛名は、ぱたぱたと翻った前髪に目を細めたあと、おう、とうなずいた。
「電車」
開いた扉から吐き出されて行く人波を見やって、榛名が言う。
「着いてるぞ」
「はい。それじゃあ、お疲れさまでした」
ぺこんと頭を下げながら、阿部は違和感に襲われていた。こんな、先輩後輩らしい別れの挨拶をするのは、ずいぶん久しぶりな気がする。顔をあげると、榛名もすこし変な表情を浮かべていた。
発車のベルに追い立てられて、阿部は電車へと乗り込んだ。閉まっていく扉越しに、榛名が踵を返して歩き始めているのが見えたが、すぐに動き出した車両は、ひとつ呼吸する間に、ホームから遠ざかっていた。
窓の外の景色は、とっぷりと闇に浸かっている。車両の入り口近くに立った阿部は、扉に体をもたせかけながら、ぼんやりとガラスに映る自分の顔を眺めた。走る車両に合わせて、その姿は揺れ、また窓の向こうの明かりに体を横切られている。
ゆるい振動は、阿部の頭の中をもゆさぶるようだった。記憶が混ぜられ、時系列もばらばらに、とりとめなく浮かんでくる。その浮かんできた記憶の中のひとつで、阿部は榛名と並んで歩いていた。
夕暮れの紅い色が強い日だった。道の脇にある桜の木は、つぼみが随分とふくらんでいたが、春にはまだ早い、と思わせる冷たい風が吹いている。
「やっと明日で終わりだなー」
榛名が、大きな歩幅で影を躍らせながら言った。学年末の試験は、残すところあと一日で、それさえ済めば、部活の禁止期間が終わる。待ち遠しさに、気の早い高揚感につつまれるのは、無理のない話だった。
「そうですね。元希さんは、追試とか補習とかに引っかからなかったら、ですけど」
阿部は、意地の悪い口調でそう言ったが、顔は笑っていた。浮かれているのは阿部も同じなのだ。榛名は、阿部を軽く蹴る真似をしてから言う。
「ナッマイキ言ってられんのも今のうちだぜ。試合で当たったらボッコボコにしてやっから」
榛名の言葉に、そうか、と阿部は思い出す。期末試験の一週間後には、オフシーズンが終わり、他校との練習試合が解禁になる。更に、あと一ヶ月もすれば春季大会が始まるのだ。野球の季節がやってくる。
阿部は、胸の内から沸き上がってきた興奮が、跳ね回りながら体を駆け巡るのを感じた。わくわくする。これからの全てが、楽しみで仕方がない。
「わくわくするな!」
阿部が考えていたのと全く同じことを、榛名が言って、顔中で笑った。一緒だ、と阿部は思った。この人の体の中も、野球でいっぱいだ。そういう榛名を、好きだ、と自然に思った。夕日に照らされた顔から、目が離せなかった。
その時、不意に、榛名の顔から笑顔が消えて、代わりに驚きの表情が現れた。あれ、と阿部が思っていると、榛名はびっくり顔のまま、言った。
「すき、って、お前が? オレ?」
「え」
榛名の言葉が阿部に浸透するまで、まばたき幾つか分の時間が必要だった。そうして、先ほど頭の中だけで考えていたと思ったことが、ひとりでに口から漏れていたのだ、と気がついて、阿部は動揺した。急に体が熱くなる。何も考えられない。
「じゃあ、付き合う?」
真っ白になった阿部の頭に、榛名の言葉が響いた。阿部は答える暇がなかった。口を開くより先に、榛名のくちびるが阿部に触れていた。
ガタン、という振動で、阿部は思い出から押し出された。カーブを曲がるため車体が大きく傾き、思わずたたらを踏む。
あの時の自分に言ってやりたい、と阿部は考えた。
おい、恋愛なんてのは、オレ向きじゃねえぞ。全然手に負えない。やめとけやめとけ。
けれども、恋にまつわる煩わしさをもう知っている自分が、それでも榛名と別れる気がないのだから、言ったところで説得力の程は知れていた。