曜日男・他
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阿部がシャワーを浴びようと、ベッドから身を起こすと、それまでほとんど眠りに落ちかけていた榛名がむずがるような唸りをあげた。シーツにぐりぐりと顔をこすりつけて、眠気を振り払おうとしている。
「寝てていーすよ。あんた、疲れたでしょ」
阿部は、手を伸ばして榛名の髪に指先をくぐらせた。汗に濡れた髪が、先ほどまでの行為の熱さを思い起こさせる。
「……んー」
榛名はごそごそと寝返りを打った。手探りで阿部の腕を掴み、その手のひらに唇を寄せる。
「明日はナイターですっけ」
「うん」
応えながら、榛名は阿部の左の手のひらにキスをする。短く、柔らかく、触れては離れを繰り返す。じゃれつく唇を感じながら、阿部は翌日の予定に頭をめぐらせた。榛名は、今日先発として登板したばかりなので、明日の試合に出場することはないが、試合前の練習には参加することになっている。
「じゃあ昼に球場入りか。オレは二限からなんで、先に出ますけど、寝坊しないように……」
「しない。起きる。タカヤと一緒に、朝ごはん……」
そう言うと、榛名は阿部の指を甘噛みした。オレの指は食いもんじゃねーぞ、と思いながらも、阿部は好きなようにさせた。硬く当たる歯の感触は、眠さに引きずられるように次第にゆるくほどけていく。
「じゃあさっさと寝る! わかった?」
「うん」
するっと腕を引き抜くと、阿部はベッドを離れて浴室へと向かう。扉を閉じる少し前に、おやすみ、たかや、とつぶやく榛名の声が聞こえた。
水音と湯気でいっぱいになった浴室で、阿部は今日の榛名の様子を思い返していた。
やはり、疲れが溜まっているように思う。セックスのあとすぐに寝入ってしまいそうになっていたこともそうだが、家に帰って来た時から、いつもよりも体がだるそうだった。
無理もない、と阿部は思う。榛名はここのところ、中4日のローテーションで登板している。投手陣に故障や不調が相次ぎ、ローテーションを担う投手の枚数が足りなくなっているのだ。
その上、チームの打線も湿り気味で、好投しても援護がなく、なかなか白星を上げることができない。負けがこめばチームの空気も重くなっていく。
それでも試合は待ってくれない。榛名も、他の選手も、懸命にプレーをしていくしかないのだ。
月末には、チームのエースが復帰の予定で、そうなれば少しは余裕ができるだろう、とスポーツ紙は報じていた。どちらにせよ、もう少しで交流戦が始まり、試合間隔が空くようになる。それを見込んでの一時的な変則ローテーションだった。
プロ4年目の榛名は、飛躍を期待されている年である。去年の後半から先発ローテーションに加わり、三勝を上げた。ほとんどマークされていなかった去年とは違い、各球団のスコアラーに研究された今年に、どれだけの成績を残せるかが、試されている。
だから、多少無理をしても、今は結果を出すことに集中しなければならないのだ、と榛名は言った。
プロの世界に飛び込んで、榛名は変わった、と阿部は思う。それまで以上に、自身の体の管理を徹底するようになり、同時に、平気で限界に挑むようになった。ぎりぎりまで自分を追い込んで、そこで見えてくるものがある、そこまでしなければプロの世界ではやってはいけないし、それこそがアスリートなのだ、というようなことを、榛名は笑って阿部に話した。
寝室に戻り、阿部はベッドの空いている部分にもぐりこんだ。シャワーを浴びている間に、榛名は寝返りを打ったのだろう。阿部に背を向ける形で、気持ちよさげに寝入っている。
阿部は、少しうれしいと思った。榛名は、阿部を抱え込んで向かいあって眠るのを好むが、阿部は反対に、榛名が背中を向けていてくれる方が好きだった。
広く大きな背中だ。阿部は自分が小柄だとは決して思わないが、体格で榛名が勝っているのは明らかである。それに、見た目の大きさ以上のものが、そこにはあった。
阿部はそっと榛名の肩甲骨のくぼみに鼻先を寄せた。目を閉じて、深く息を吸い込む。
とても遠い匂いがする。目の裏に、遠く遠く、どこまでへも走っていく榛名の姿が浮かんだ。阿部は、知っているのだった。榛名が歩みを止めずに進み続けるだろうこと、そうして、その背中にずっと焦がれ続けるだろう自分のことを、深くよく知っていた。阿部の、初めてで、それからずっと一番の、憧れの全てがそこにはあった。
眠気が来るのを待って、しばらくそうしていると、ふと、頭に、阿部はどうするんだ、と問うた友人の声が思い出された。似合わないスーツ姿の友人を見て笑っていたら、そう言われたのだ。大学三年生になったとたん、周りの同級生たちは競うようにして就職活動をはじめた。どうする、やっぱり野球か、と尋ねた声に、阿部は応えられなかった。
自分はドラフトにかかるような選手ではない、ということは分かっている。たとえば、野球を続けるとして、社会人野球を目指すのか、プロ野球の育成枠を狙ってテストを受けるのか、全く別の関わり方をしていくのか、そういったことを考えなければならない時期になっているのだ。
阿部は、もう一度榛名の背中の匂いを吸い込んだ。遠ければ遠いほど、安心する。
その時、榛名が再び寝返りを打ち、何かを探すようにもぞもぞと腕を動かした。やがて、求めるものを見つけると、しっかりと引き寄せて、それからまた規則正しい寝息を立て始めた。
よく鍛えられた胸元に顔を押しつけられ、阿部はむせかえるような榛名の匂いにつつまれる。阿部の、榛名の匂いだった。
途端に、悲しいようなつらいような気持ちがこみ上げてくる。胸をぎゅっと引き絞られた思いがして、阿部は思わず自分の心臓の当たりを押さえた。
もし、阿部がもう少し、自分の気持ちを表すことに丁寧であったら、その言い表し難い何かは、愛しさであると思ったかもしれない。けれども、自身の感情に不器用な阿部は、榛名の体が熱くて重たいので、息苦しいからだ、と自分に言い聞かせていた。
そうして、世界で一番遠くて近い男に抱かれて、阿部は眠りに落ちていった。