人魚
9th day[wednesday]:I wish everyting is over now
光の色が段々と青に変わっていき、それから、金へと。
夜が明けようとしていた。
冷えてきた体を厭うて、すぐそばにあった温もりの中へ身を寄せる。そこは暖かくて、そして安心できた。閉じ込めてくる腕を、普段ならきっとうるさく思ったはずだ。だが、その時に限り、ほんの小さな子供の頃に帰ったように、身を摺り寄せていた。
そこは本当に暖かかったから。
気付けばお互いに何も身につけていなくて、汗がひいたままにしていた肌はざらついて感じたけれど、それを超えて、ただ暖かさを求めて、他の欲は抜きにして身を寄せ合っていた。
「………」
どちらが先に目覚めていただろう。
多分、男の方だった。
「………」
記憶が戻らなければいいと思う。
そうすれば、この生活がもう少しは続くのだろうから。
けれど、早く取り戻さなければいけないとも思う。
そうしなければ、もっとエドワードを傷つけることになるだろうから。
…いつしかロイの口元は自嘲に彩られ、ただやさしく、何度も金の髪を撫でておろした。彼がアンバランスな体をもつ理由も、その独特な錬成の由来も知らない。本来は知っていたはずのそれらを喪っている。聞けば教えてくれるかもしれないが、元は知っていたはずなのにと考えるとそうするのも複雑だった。
ある意味では、彼を何度も殺したようなものだった。体を繋ぐことが、いつだって祝福される愛情の結果であるとは限らない。むしろそうでないことの方が、世の中には多いかもしれない。まして、エドワードはまだ少年で。それも見た目はかなり幼くしか見えないほどの、未完成な生き物で。
拒まれはしなかった。だが、求めて許される相手ではないだろう。
そもそも、求めること自体が、認められがたいことである。…無論、今更そんなことを言ってもどうにもならないのだが。
それなのに、ひとつだけ残酷な真実があった。
なかったことには出来ないはずだし、したくもないが、そうなってしまう時がくるということだ。
ロイに記憶が戻った時、今の生活について記憶している可能性は低い。勿論、喪われない可能性もあるにはあるが、多分かなり低いといわれていた。
「…………実に…喜劇的な悲劇だ」
呟いて、ロイは目を閉じた。
実際、…譬えようもなく滑稽な悲劇だ、と思った。愚かで悲しい物語。誰も救われないお伽噺。そんなのってあるだろうか。それとも寓話とはある程度の訓戒を含んでいるものだから仕方がないのか。そういうものなのだろうか?
…自分の想いが、許しがたかった。
なぜならそれは、エドワードをただ苦しめ、絶対に救うことはないようにしか思えなかったからである。
呟きを最後に目を閉じ、ぴくりとも動かなくなったロイにかわり、今度はエドワードが目を開いた。
「……………」
彼はしばらく何も言わず、薄目を開いたまま、自身が顔を埋める胸元を見ていた。
ややあって、小さくその胸元にキスを贈り、それからようやく顔を上げる。今は目を閉ざした精悍な顔を、じっと見つめる。
「……………」
どうかしている。
まさか餓えていたなんてことはないだろう。誰ともこんなに深く触れ合ったことはないのだから、こんなものが欲しいなんて、想像したこともなかった。それに、もしも欲するのなら逆の立場が妥当なはず。抱きしめられて離れがたいなんて、おかしい。…自分でも、初めはもしかしたら、ただ人の温もり、そのものに飢えていたのだろうかと思いもした。だが、そうでないことなどすぐにわかってしまった。
抱かれることに、驚くほど抵抗がなかった。勿論、まったくなかったわけではない。けれど、求められて、嫌ではなかったのだから、抵抗があったとはやはりいえないだろう。ただ、それがロイだからなのかどうかも、一瞬迷うところがあった。
でも、今はそんな迷いは欠片もない。
すべて彼だから許したことだった。自分にさえ、すべてを許した。溺れることまで。
―――今の彼が泡沫の存在であり、恐らく記憶が戻った暁には消えているのだろう、ということは、充分にわかっている。無論、元に戻っても、記憶を喪っていた間のことを忘れているとは限らない。覚えている可能性もないではなかった。
だが、覚えていても、忘れてしまっても、どの道やはり今のこの生活は続くものではないとわかっていた。それは少年に染み付いた、求めれば求めるほど遠ざかる、というトラウマ…、のようなものだったかもしれない。わかっていたというよりは、ありえないと思っている。初めから諦めている。望んだ瞬間から、すぐに。
だから、どうかしている、と思うしかない。
自分もどこかおかしくなったのかもしれない、と。
…本気で好きになったというのなら、まだ、欲求不満だったとか好奇心ゆえに、とかいう理由の方がましなような気がしている。そういう風に自分をごまかすしかないだろうと。本気で、なんて、ありえない。あってはならない。エドワードはそんなに器用な性格をしていないから、大事なものはひとつしかかかえられないのだ。誰かがそれを愚かと詰ったとしても、出来ないのだから仕方がない。エドワードが責任を持たなければならないのは、自分の気持ちよりもまず目的だ。
エドワードは泣き笑いのような顔をひっそりと浮かべた。
そして目を伏せ、厳かな態度で、眠っているように見えるロイに、触れるだけのキスをした。離れて、それから、今度は指でその唇を一度なぞる。いとしげな手付きで。
「……今死んだら……」
無意識の言葉がするりと唇から零れて落ちた。続きは、きゅ、と引き結んだ唇の奥、もう出てくることがなかったけれど。…でも、思わずにいられなかったのだ。
今すべてが終わってしまうなら、どんなにいいだろう、と。
せめて大声を上げて泣いてしまえたらよかったのにと思った。そんなことは、絶対に出来なかったけれど。
「………」
ぽす、とエドワードはロイの胸にまた顔を埋めた。
「…好きだよ」
そして、まず聞こえないだろう小さな、小さな声で、そう零した。
「………」
ロイは身じろぎしないまま、薄目を開けた。その目を下に動かし、まだ自分は寝ていると思っているらしい小柄な体を視界に納める。金髪がしどけなく体に纏わりついているのが見えた。
お互いに何も言葉はないまま、夜だけが淡々と明けていくのだった。