人魚
10th day[thursday]:he had left a mark on his dear
「あら?坊や、虫刺され?」
歩いてすぐくらいのところにあったパン屋の、老婦人が不思議そうに言うので、こちらも不思議に思って小首を傾げた。
小さなパン屋は老夫妻が細々と営んでいて、置いている種類は少ないのだが、どれも素朴でありながら味わい深いものだったから、発見した時はちょっと誇らしかった。そういえばロイとも一度来た。散歩していて発見したから(一度だけ、天気がよいので近所に散歩に出た時があった)。
老婦人は、ほらここ、と自分の首筋を示した。首筋というか、耳の裏側あたりか。
「……?いや…、」
「あんまり大きな痕じゃないからねぇ。かゆみ止めと思ったけど、気がつかないくらいのだったら平気だね」
老婆はにこりと笑い、バケットの入った袋を手渡してくれた。
「ああ、それからこれ、おまけ。お茶の時にでも食べてちょうだいね」
「え、そんな」
「いいからいいから。もらってくれたら、おばあちゃんは嬉しいのよ」
やんわりと押し通され、エドワードは、ラスクの袋を断り切れない。
「…ありがと」
照れ臭く礼を述べたところ、いいえこちらこそお買い上げありがとう、と笑顔が返ってきた。故郷の祖母、のような人のことを、不意に思い出した。もっとも、彼女はこんな穏和な性向ではないけれど、こうして自分を労わってくれるのに違いなどない。
バケットとフルーツを少し、それからコーヒー豆を買い足して、エドワードは仮住まいの家へと帰っていった。
パタンとドアを閉めれば、ほんの数日前、ロイに手を引かれて帰って来たのを思い出した。そこに続く出来事もあわせて。
「………っ」
耳まで熱くなるのがわかって、咄嗟に口を押さえ、そのままドアに背をつけてしゃがみこんでしまう。
「…?おかえり?」
…そしてタイミング悪く、一応期間限定の同居人がやってくる。
彼は不思議そうに首を傾げて、室内履きのまま玄関ホールへ降りた。そのことには一切頓着せず、膝を折って少年の顔を覗きこむ。生来物事の優先範囲の狭い人間なのかもしれない。大事な事以外はどうでもいい、という…。
「どうした?」
顔を上げられなくて、ぶんぶんと頭を振れば、暫しの沈黙。それから溜息の気配があって、そろりと顔を上げた時には既に遅かった。
「…ぅわっ?」
強引に担ぎ上げられ、そのまま運ばれる。
「ちょ、おい、こら!?」
「暴れるな」
一瞬呆然としたけれど、さすがに肩や頭を叩いて降ろさせようとしたら、低く命じられた。なんという傲慢。なんという身勝手。
「…っ!」
「もっと大事そうに運べという苦情だったら、聞かないこともないが」
あまりの勝手さに呆れて咄嗟に言葉もないエドワードに、ロイはさらに、しゃあしゃあとそう付け足した。まったく…、普段の彼がどれだけ地を晒しているかにこんなところで気付きたくはなかった。
要するに、この男は勝手なのだ。
…ただ、それが誰に対してもそうであると思ってしまっただけ、実は微妙に彼らの心理はすれ違ってしまっているといえた。エドワードには、他の人間と自分とが受けている扱いの差が今ひとつ伝わっていないところがあったというわけだ。
ソファにそれでも大事そうに彼を降ろすと、ロイは改めて質問した。
「で。…どうしたんだ。大丈夫か」
真面目な顔でこちらをのぞきこんでくるのに、もう言葉もなくなって、エドワードはただ深く溜息をついた。
「…。あのな」
「?」
怪訝そうな顔をするロイに、少年は息を吸い込んで勢いをためる。そして、いよいよカッと目を見開き、怒鳴りつけるのだ。
「バカか、あんたは!オレが買ってきたもの、今すぐこっちにもってきてちゃんと収納しろ!オレはもう知らねぇからな!」
その勢いにびっくりしたのだろう。ロイもまた目を瞠り、一瞬言葉を失う。だが、はっとしたように立ち上がると、慌ててエドワードが抱えて帰ってきたパン屋の袋などを取りに戻った。
その背中がおかしくて、エドワードはこみあげるままに笑っていた。
体がだるかったので、昼はバケットで簡単にサンドイッチを作り、すこし胃が苦しいような気がしたのでコーヒーを止め、オレンジを絞って飲んだ。ロイは発掘したというワインをあけていた。昼間っからいい身分だとからかえば、水のかわりだと嘯いていた。
…老婦人に貰ったラスクと紅茶をとりながら、ふたり静かに午後を過ごす。時折時計の音が気になるくらい、静かな空間だった。
「………エドワード」
「……?なんだよ」
と、ふいに名を呼ばれ、専門書ではなくて紀行文を読んでいた少年は顔を上げた。この家に着てからというもの、そういえば専門書の類を一ページたりとも読んだ記憶がない。
「………考えたんだが…」
「?……なにを?」
三人掛けのソファに寝そべっていた少年は、軽く腰を上げると、向かい側で普通に座っているロイの横まで行く。そして、静かに、その隣に腰を下ろした。
「証拠を残そう」
「――――――は?」
唐突な言葉に理解が追いつかず、エドワードは数度の瞬き。口から上がったのも、ただの声だった。
「いや、だから、考えたんだが…」
「だから、なにを」
「…。どうしたら確実なものに出来るか、ということをだ」
エドワードは眉間に皺を寄せ、小首を傾げる。
記憶がないだけでも厄介だというのに、この男、他の部分もおかしくなったのだろうか。それはちょっといただけない話だ。
「君への想いをだよ。…どうしたら、君を傷つけず、私が君を失わないですむのか。考えていた」
しかし、ロイは淡々とそう言うのだ。エドワードはゆっくりと目を瞠って、絶句した。
…何を言っているのだ、この男は。
「…証拠を残そう」
しかしロイはどこ吹く風、微かに笑うと、呆気に取られている少年の腕を引き、あっさりと己の腕の中へと閉じ込めた。
「…っ?」
そしてそのまま、すっかりなれた仕種でエドワードの胸元顔を埋めると、小さく赤い痕を残す。片目を瞑りながら、それでも困惑の態でロイを見つめてくるエドワードに、男はわずかに笑みの気配を漂わせ、囁いた。
「…。この二週間弱、私と君は一緒にいた。それは皆が知っている。私が忘れても…」
「…………?」
「私にしかつけられないものだ、これは。たとえば…元の私がよほどにどうしようもないヤツで、君が縁を持ちたくないのなら、なかったことにすればいい。だが、そうでないのなら…」
エドワードの呆然とした顔に、見る間に朱が上った。―――明らかに、怒りで。ロイはその鮮やかな変化に目を瞠る。そして、胸倉をつかまれ、今度は逆に引き寄せられた。
「……」
そしてちくりと。
愛ある、痛み。
「………バッカヤロウ」
ぷい、と彼は顔をそらした。なかったことにする気がないとは言わなくても、なかったことにしたくない、とは言ってくれたことになる。
それならもうそれで充分すぎるほど。
ロイの瞳にも喜色が満ちる。
「―――エド」
初めて名前を呼ばれたときも、ひどく驚いたものだった。けれど。
エドワードは、目を皿のように見開き、呆然とロイを凝視した。それに笑って目を細め、ロイはさらりと金髪を梳いた。前髪をかきあげるようにして、額に軽い口づけ。