人魚
愛称で呼ばれる日が来るなんて、考えたこともなかった。
脱がそうとしてくる手を止めて、自分で一枚一枚、ゆっくりと衣服を脱いでいった。そして、じっと見ている男を軽く睨んで、そのシャツのボタンをぷちん、ぷちんと外してやる。すると彼は機嫌のいい犬のように太平楽な顔をして、首を軽く仰のかせる。脱がせろということだった。
それに横着なヤツ、と笑いながら、自分も半裸のまま、少年は不思議と機嫌よくロイのシャツを脱がせていった。
「……これ、古そうだな」
それまでゆっくり見る余裕のなかった体を眺め、エドワードは、そこにいくつかの古傷を見つける。どういう由来で付いたものかは判らないが、つけられた意図ならはっきりしすぎているくらいだった。…いずれも、命のやりとりのぎりぎりのところでつけられたものに違いあるまい。もっとも、今のロイにそんなこと、わかりはしないだろうが。
「…………」
エドワードは目を閉じた。そして彼の胸板にそっと両の手をついて、傷を癒すように唇を寄せた。とっくに治っている傷だ。だから気分の問題である。
だが、まさか自分が、他人に対してそういう気持ちになる日が来るなど考えたこともなかった。大事な母や、弟以外の相手に。師匠でも幼馴染でもなく、ましてこの男相手に。
だがもうそんなことはどうでもよくなっていた。
思うままに生きる。というより、自身が結局、思うままに生きることしか出来ないのを、もはや彼も認めるしかなかった。愛するにせよ憎むにせよ、演技や手加減が出来るような器用な人間ではないのだ。
「………君のこれは」
と、顔を離したエドワードの腕を、今度は自分の番だとばかり、ロイが取る。引き寄せた右手には、敬虔なキスを捧げる。
「……。罰で、…でも勲章だ」
「罰…?」
エドワードは気負いなく肩を竦めた。それからほんの少し目を伏せる。
「…。バベルの塔を作った人間を、神は許さなかった。…それと一緒で…これはオレの傲慢の罰だ。…でも…」
彼は、大人びた顔でうっすらと笑う。儚いように思えるのに、落ち着いて力強くもある不思議な表情だった。
「オレはこれで、アルを…弟を引っ張ってきたんだ」
「………」
「だから…、勲章でもあるんだと思ってる。…かっこつけだけどさ」
それを聞いて、なぜかロイは眩しそうな顔で笑った。
「…?」
「…………私は私の人を見る目のよさに自分で感動しそうだ」
エドワードはきょとんとした顔で、数度の瞬き。そんな少年に、ロイは笑みを深くする。
「―――君は素敵だという話だよ」
そう囁いて、とん、と軽くエドワードの肩を押す。
自分に無理矢理押し込んだくせに、出て行くときには不思議と馴染んでしまっていたそれが、粘着質な音を立てて離れていく。
倦怠感が指先まで深く浸透している。
浅い息で胸を上下させながら、エドワードは一度目を深く閉じた。けれど、また、薄目を開ける。
「……エド、…」
「だりー」
何か言いかけた男を遮るように、エドワードはわざと乱雑な口調で訴える。それにロイは数度の瞬き。けれど、鮮やかに笑うのだ。
「でも、段々馴染んできたんじゃないのかな」
「―――っ!」
不意打ちに、エドワードの頬が赤く染まった。
「最初なんて君は気を失って大変だった…」
「そ、そんなのっ、…あ、あんたがへっ…下手なんじゃねーの…!」
どもりながら、少年も反論を試みる。が…。
「なんだ。エドは誰かと私を比べているのか?」
「…っ!あ、アホかっ…」
難しい顔でバカなことを言われ、今度こそ、エドワードはシーツに突っ伏した。
「……エドワード」
男は声にまで微笑を含ませて、やさしく呼ばわった。そして、さらりと何度も髪を撫でてくれる。
こうして髪を撫でられるのが好きだった。多分、小さな頃の―――つまり何の不安もなかった日々の記憶が、どこかに残っているせいだろう。母の優しい手が、こんな風に髪を撫でてくれると、それだけで安心して眠りについていたものだ。
もっと呼んで。もっと触れて。
…今だけなら許されるだろう、だから。
「……ロイ」
小さく、本当に小さく、エドワードは目を閉じたままに、男の名を呼んだ。
だるかったが、夕刻になれば、夕飯の支度を半ば義務的に始めなければならない。だがエドワードは本当にだるくて、それを見かねたロイが自分でやると言い出した。
ならばまかせよう、と簡単に考えたエドワードだったが…、その時の彼は、やはりすこしどうにかしていたに違いない。初っ端からトースターを壊されたことを忘れてしまっていたのだろう…。
結果から言うと、見ているだけの方が逆に疲れただけだった。
おまけに、ほっとして気も抜けていたら、腰が立たないのかと揶揄され、気付いたらまた一戦というムードになりかけた。それでも事なきを得たのは、偶然にも空腹を主張してくれたエドワードの腹の虫のおかげだろう。
―――そして事態は、ふたりがどうにか食事を終え、風呂も終えた時に急展開した。
ごんごんといささか乱暴にドアを叩く音に、ふたりは顔を見合わせる。どちらが出るともめにもめたものの、結局エドワードが押し勝って、彼が玄関口に立つことになる。
「…はいはい、誰ですか、と…」
…やはり、その時の彼はどこか散漫としていたのだろう。普段なら、その様子のおかしな気配に気付かなかったわけがない。
「……わっ…?!」
開いた途端、闇を裂くように銀が飛び掛る。
―――それはナイフだった。咄嗟に避けたものの、足場も悪く、軽くよろめいてしまう。と、そのただならぬ気配に気付いたのか、それとも鋭く何らかの害意を感じ取ったものか、ロイも飛び出してくる。
「…マスタング…!」
憎しみのこもった声がして、エドワードは闇に目を凝らした。
「…っ」
爛々と狂気に輝く目を見つけ、思わず息を飲む。…それは、明らかに狂人のものだった。
場数も踏んでいるし、めったなことでは動じないはずのエドワードだが、その明らかな狂気に、一瞬足が竦む。そんな彼を強引に引き倒したのはロイで、彼は、その突然やってきた狂人に果敢な瞳を向けると、隙のない身のこなしで、一撃を深く、相手の腹に叩き込んだのだった。
「…ぐわっ…」
よほどに重い一撃だったのだろうか。唐突な襲撃者は、よろりと倒れ掛かる。
…が。
「死ね!死ね!死…っ」
壊れた機械のように同じ言葉を繰り返すその男は、色を失うエドワードを、それでも与し易しと見たのだろうか。ナイフの切っ先を、少年に向けて閃かせた。
「―――っ」
目を丸くするエドワードの前に、ロイが身を滑り込ませたのはその一瞬後。
ロイはナイフを持つ手の上へ手刀をたたきこみ、相手が怯んだところを、容赦なく屋外まで蹴り飛ばした。間髪いれずに外まで追っていき、起き上がろうと姿を起こした不審者を容赦なく殴りつける。段々その姿こそが怖くなってきて、エドワードは顔色を悪くしながらも、よろけるようにそれに近づいた。奇妙に現実感が希薄だった。
「ちょ…、もういいだろ、やめろよ…!」
恐る恐る声をかければ、す、とロイがこちらを振り向いた。