人魚
と、彼は考え込むような色を深い色の瞳に浮かべて、慎重に副官に尋ねる。ホークアイ中尉は黙って続きを待つ。
「どこか…、なんだか、様子が違っていたように、私は思ったんだが…」
やはり気づいていないことはなかったか、と彼女は一瞬目を伏せる。
だが、自分に訊かれても困るのだ。何しろ、彼女は推察することは出来ても、確証を得ているわけではなかったから。
「…疲れているように、見えましたが?」
無難な答えを彼女は返した。実際、それ以上言うことは出来ない。彼女は彼らの置かれた状況も、立場も、よく存じていたからだ。
「…疲れ…、そうか、そうだな…」
ロイはその返答に一度瞬きをして、なるほど違いない、と苦笑する。
「まあ…そうだな。彼には言葉ばかりの礼より、形のあるものを返した方がいいだろう」
そして諦めたようにそうひとりごち、文献でも探すか、と締めたのだった。
駅について、見送りとばかり出てきたブレダは、最後に一言、エドワードに向けて言った。
「…世の中広いからよ」
「…?」
「…向こうが忘れてくれたなら、…おまえはまだまっさらなんだしよ」
「………?…少尉、何…」
ゆっくりと目を見開いていくエドワードに、困ったようにブレダは笑った。
「…体に気をつけろよ」
物問いたげなエドワードに、しかしそれ以上の言葉を与えることはなく、彼はぽんぽんと金髪の小さな頭を叩いた。
「じゃあな」
「うん…」
呆然としたまま、エドワードはブレダを見送った。
―――彼は気付いていたのだ。でも、誰にもそれを言わないでいてくれた。
少年は俯いて、爪先を見つめた。
…まっさらだから、と。たぶん、彼は傷つくなと言ってくれたんだろう。
大人のやさしさなんて慣れないものすぎて、どうしたらいいのかわからないけれど、嫌な気持ちはしなかった。そして、彼が自分を、小さな子供と見ているから心配してくれたのではなくて、エドワードというひとりの人間として認識した上で気遣ってくれたことが、もっと嬉しかった。
「…ありがと、少尉」
本人に言えたらよかったのだけれど、相手も多分、礼は望まないだろう。だからこっそりと呟くに留めた。
執務室に戻り、ロイは部屋を見回した。
割れた窓は元通りになっていたが、デスクを初めとした調度類は新しいものになっていた。
感慨深く…、というのとは違う。
どこか釈然としない気持ちで、ロイは椅子に深く腰掛け、腹の前で手を組んだ。
「………」
事故の直前、自分が何を思っていたのかは思い出せない。
だが、聞いた話では、自分はエドワードを庇って負傷したらしい。そして記憶が戻ったきっかけもまた、彼を庇ってのことだったという。
自分が、彼を。
…なぜだ?
別に、彼を見殺しに擦ればよかったと思っているわけではない。彼に怪我がなくてよかったと思いもする。だが、自分がそういう行動をとった、というのは、何となく違和感があった。この自分が、ロイ・マスタングが、―――人を庇う?
誰かを、守る?
「………、わからんな…」
ロイは頭を振った。やはり、ところどころの記憶が不鮮明だった。
「……。……ああ、…片付けなくてはいけないのか、あれは」
すっきりしない思いを感じながら、彼はふと、デスクの脇に置かれた箱に目をやる。どうやらロイの私物というか、デスクの中身らしいのだが、部屋の補修を行った折、どこに片付けるのかわからないものをひとまとめにしておいてくれたらしい。
…それはいいのだが、どうにも雑然としている。
ロイの意識は、一瞬、うんざりしたものに切り替わる。彼は収納とかそういったことがすこぶる苦手だった。それこそいっそ燃やしてやりたくなるのだ。
―――なんでこんなに散らかすんだよ?
「…っ?」
と、それを見ていたら、不意に誰かの声が脳裏に蘇る。
いや、誰か、なんてものではない。どこの誰とも知らない人間のものではない。
…鋼の、…エドワード・エルリック。
「……つ…」
もっと思い出そうとして、瞬間、頭痛が走る。あまりのきつさに思わず片手で額を抑えながら、それでもロイは、その記憶を見極めようとした。
―――蓋閉めろって言ってるだろ?!
「……なんだ…?」
怒ったように片手を腰に当てて、叱られた。そんな姿は知らない。そんな声は知らない。
二人はそんな関係ではない。
そんな、近しい間柄ではない。
では、これは?
―――収納がうまい。
「…そうだ、…君は、収納が上手い。…掃除もできる」
記憶をなぞって、唇が勝手に動く。
目を閉じれば思い浮かぶ…、照れたように口を尖らせる幼い顔。
―――片付けないとアルが怒んだよ…。
照れ隠しに怒って見せるそのあどけない顔。
…まろい頬のやわらかさを知ったのはいつ。
…いつ?
ロイは目を開いた。そして呆然と虚空を見つめる。
「………、…エドワード?」
呟くと、呆然としていた顔が厳しいものに変わる。それから勢いよく立ち上がり、随分としっかりした意思を感じさせる態度で足早に歩き出す。
「…大佐?」
コートを手に、外に出る風情の上官を見つけ、副官は目を丸くした。今更どんなアクシデントにも驚きはしない覚悟が彼女にはあったが、それでもだ。
「中尉。…ちょうどよかった」
「は…?」
「私は駅に行く。…鋼のに、話があるんだ」
翻すつもりのない声を聞かされ、中尉は一瞬口をつぐんだ。それから、諦めたように溜息。
「…かしこまりました。では、今車を回させます」
「いや、歩いてでも…」
「エドワード君の乗る汽車が出るまであまり時間がありません。お会いになりたくないのでしたらそれでも結構ですが?」
護衛をつけろといって大人しく聞く男でもない。それを把握して、中尉はそのように釘を刺す。
「…わかった」
「ポーチでお待ちください。五分とお待たせすることはありませんから」
「すまない。頼む」
「承知いたしました」
書類を抱えたまま、彼女は元来た廊下を引き返していった。
が、不意に立ち止まり、振り返ると短く尋ねる。
「大佐」
「なんだい」
「何か、思い出されたのですか?…この二週間のこと」
ひたと見据えてくる明るい色の瞳は、彼の目をすこし思いださせた。
そんな風に考える自分に苦笑して、ロイは肩を竦める。
「…全部ではないがね」
「さようですか」
それからすこし言いよどんで、彼女は顔を上げた。
「それは、よかったです」
それだけ言うと、また彼女は歩き始めた。そして今度は振り向かなかった。
中尉の好意で一等の客室を用意された兄弟は、席につくと久々に向かい合った。
「兄さん、大変だったね」
「ん?…まあな。でもおまえだってそうだろ?困ったこととか…なかったか?」
「ボクは平気。皆良くしてくれたよ」
「…そっか」
弟の優等生な回答に、エドワードは微苦笑。
とはいえ、彼もあの大人達は信用している。アルフォンスの返答は、特に無理をしてのものではないはずだと確信していた。
「…あ、でもね兄さん」
「なんだよ」
「クレイ女史には、今度ちゃんとご挨拶した方がいいと思うよ」
「…おばさんかー…」