人魚
「もうっ。兄さんいっつも散らかすんでしょ、本。クレイ女史が言ってたよ」
「あー…うん、はい、はい…」
エドワードは適当に生返事を返す。聞く気がないのが一目瞭然だった。
「兄さん、ちゃんと聞いて」
「…はい」
…と、アルフォンスの説明を遮るように、個室のドアの向こうで人の話し声がした。おや、と思う間もなく、個室のドアがノックもなしに開かれる。…かなり乱暴に。
「大佐?!…どうなさったんですか?」
驚きの声を上げたのはアルフォンスで、エドワードはといえば、目を丸くしてその男の姿を凝視していた。突然やってきたロイも口を開くことなく、ただじっとエドワードを見ていた。
「…大佐?」
怪訝そうに再び呼びかけたアルフォンスの声に、それでようやく気付いたような調子で、ロイははっとしてアルフォンスを振り返った。
「あ、ああ。アルフォンス君。こんにちは」
「…こんにちは…」
やたらと間が抜けた挨拶に、さしものアルフォンスも困惑を隠しきれない。彼は兄とは違った意味でロイをそれなりの人物と理解していた。それはどういうことかというと、こんな隙を見せる人間ではないだろう、という理解だった。
それだけに、ロイのこの失調気味な様子は、彼の理解の範疇を超えていた。
「―――何しに来たんだよ」
が、兄の固い声が、アルフォンスの意識をそちらに向けさせる。
エドワードは苦しそうに目を眇めていた。
他人が見たなら、それは、ただ睨んでいるだけに見えるだろう。だがアルフォンスはもう長いこと兄と一緒にいるのだ。それが、彼の苦しさを表していることくらい、すぐにわかった。
そして聡い少年であるアルフォンスは、二人の間に何かがあったこともまた、同時に覚らずにいられない。自分が立ち入ることの出来ない領域である、ということまで含めて。
「…君に話があって」
「オレにはない」
エドワードは冷たく遮った。取り付く島もない。
「私にはある」
だがロイも挫けない。その辺のしつこさはさすがというべきだろうか。
「…これは君が私にくれたものだな?」
「……?」
ロイの言葉に、エドワードは眉間に皺を寄せて訝しげな顔をした。だが、ロイが自分の襟元を寛げるに至って、目を丸くして頬を染める。
―――ロイが示したのは、確かに、彼にそそのかされてではあったけれど、エドワードが遺した痕だった。
「…………、…アル」
「…なに?兄さん」
エドワードは固い顔のまま、弟に向き直る。
「…ちょっと、外に出ててくれ」
「……」
「頼む。後でちゃんと説明する」
「わか…」
「別に聞いていてもいいと思うが」
アルフォンスの返答を、兄弟の会話を、ロイがこともなげに遮った。
「あんた…」
「なぜだ?別にいいだろう。悪いことじゃない」
ロイの飄々とした返答に、エドワードは目を吊り上げ反駁しかけた、が、今度はアルフォンスがそれを遮る。
「いえ。やっぱり、ボク、外に出てます、大佐」
「そうか?」
「ええ。…そのかわり、後で落ち着いたら、ちゃんと話してもらえますか」
アルフォンスの穏やかな、しかし確固たる声に、ロイは二、三度瞬きをした。それからうっすらと笑う。
「わかった。約束しよう」
「ちょ、おま…」
「じゃあ、ボクは外に」
兄の制止の声も聞かず、弟も後見人も勝手に話を進めており、そして弟は静かに室外へ出て行く。
「アル…」
「ちゃんと話しあって。兄さん。…気付いてないかもしれないけど、すごく顔色悪いんだよ?今朝からずっとね」
「…!」
追いすがるように名を呼んだ兄に、呆れたような、だが親愛に満ちた声で、鎧の少年はそう返したのだった。
アルフォンスが出て行った室内に、エドワードとロイはふたりきり取り残される。
「…とりあえず座ろうか」
最初に言葉を発したのはロイだった。
エドワードは悔しげに唇を噛んで、ぎろりとそんな男を睨みつける。
「オレに話なんてない。あんた、早く帰れよ」
「だから言っただろう。私にはあるんだ」
「記憶戻って、元に戻った初っ端からサボリかよ?いつかほんとに首になるぞ、あんた」
憎まれ口を叩く少年に、男は溜息をつく。そして強引に腕を引っ張り、自分の横に腰掛けさせた。
「…座りたまえ、と言っただろう」
「…っ」
エドワードは目を剥いてロイを睨みつけるが、黒い瞳を眇める男に堪えたところはやはりない。
「…“どうしたら、君を傷つけず、私が君を失わないで済むのか、考えていた”」
やがてロイは、静かにそう口にした。
「――――――っ!」
エドワードは息を飲み、そして咄嗟に離れようと腰を浮かせた。
だが、ロイの行動が一瞬早く、少年の体は遠ざかるどころか男の腕の中に閉じ込められることになる。
「…私は君を傷つけたな」
「……何のことだか」
「全部じゃないが、思い出したよ。…エドワード」
鼻で笑うエドワードにも怯まず、ロイは顔を寄せ、そう囁いた。
「…エドワード」
「やめろ」
名前だけをもう一度囁いた男に、少年は制止の声を上げる。だがその響きは辛そうに歪んでいた。
「…エド」
「やめろつってんだろ…!」
腕を突っ張って、少年はそこから抜け出そうともがく。
「いやだね」
だが男も負けてはいない。つんとしてそう言い放つと、ますますきつく少年を抱きしめてきたのだ。
「だからっ…」
「私は生憎、王子の柄じゃないんだ」
「……?」
突然の話題の転換についていけなくて、エドワードは訝しげな顔をして瞬間押し黙る。
「私は欲しいものを遠慮しない。身を引くのが美徳だなんて考えたことは一度もない」
「……あんたなぁ…」
「野望の為に乙女を捨てるなんてのは、ナンセンスだ。私は私の野望を諦めないし、だが君も諦めない」
力強く断言して、ロイはエドワードの顔を覗き込んだ。その額になつくように唇を寄せて、囁く。
「…泡になんかさせないさ」
その言葉に一瞬目を見開いたエドワードだったが、ぎゅっと瞼を閉ざすと、ロイの胸に顔を伏せた。
アルフォンスはただじっと廊下で二人の話が済むのを待っていた。
待っていたのだが…とうとう貴社が出発するに至って、さすがに待つばかりではいられなくなった。
「…あの、大佐」
ノックをすれば、少しの間は開いたものの、なんだねと返事があった。
「この特急、もう出発するみたいなんですけど」
「えっ?!」
今度はロイではなくてエドワードの驚いた声が聞こえてきた。すこし鼻にかかった声なのが気にかかるが、今はそれより気にすべきことがある。だが…。
「そうか」
当の、心配されている本人は、あっけらかんとした返事。
「…、あの、もう開けても大丈夫ですか」
一応そう問うと、構わないというロイの返答と、おまえ何気回してんだ、という幾分焦ったようなエドワードの返答。なんだか疲れるものを感じながら、アルフォンスはドアを開けた。自身が開けようとしていたのか、エドワードが正面に立っていた。
「…っと…」
驚いてよろけたエドワードを、背中側からロイが、正面からは腕を伸ばしたアルフォンスが支えた。
…その瞬間、実にいいタイミングで汽笛が鳴る。まさに出発を告げるものであった。
―――そして、ゆっくりと汽車は動き始める…。