人魚
「…あーーー!」
「なに、ちょっとうるさいよ、兄さん…」
「ちょ、大佐!出発しちまったじゃねーか!どうすんだあんた!」
支えられた体勢から立ち直ると、エドワードは気色ばんで問い詰める。しかしロイはどこ吹く風で、はて、と余裕を崩さない。
「そうだな。出発してしまったね」
その、人を食った返答に、エドワードは目を丸くし、アルフォンスは「この人確信犯だ」と諦めきった溜息。
「してしまったね、ってあんた…!!」
「しょうがないねぇ、困ったなぁ。ああ、折角だから君達と同行させてもらおうかな」
「はぁあ!?」
ロイはいよいよ余裕綽々で、足まで組むと、すっかり寛いだ姿勢で笑うのだった。
「あんた、何言ってんの?!」
「…兄さん、ちょっと、落ち着いてよ」
「アル!これが落ち着いていられるか?!なんなんだ、この男は…、アホか!正真正銘のアホか!」
だー、とエドワードはかりかりと頭をかきむしる。さっきまでの深刻そうな様子が嘘のようだった。
だが、こちらの方がはるかにエドワード「らしい」。
「…もー、諦めなよ兄さん…とにかく次の駅まで行くしかないよ」
意外と切替の早いアルフォンスが、そんなエドワードに諦めろと声を掛ける。実際、こうなってしまったらもうどうしようもないのだ。まさか汽車から飛び降りさせるわけにもいくまい。
「…ん?」
なんだか疲れるなあ、と思ったアルフォンスが、その時どうして窓の外を見たのかは判らない。ただ、何となくきっと、感じていたのだろう。近しい人々の気配を。しかし、とにもかくにも気付いたアルフォンスは、また違う意味で驚く羽目になる。
「…えっ?!」
がた、と窓辺に寄った弟の姿がかなり狼狽していたので、なんだ、とエドワードも意識をそちらに向ける。そして硬直した。
「…はっ…?」
―――いつの間にやってきたのかは判らないが、一台の軍用車が、汽車と並行して走っているのだ。
がた、とやはり彼も窓辺に乗り上げれば、中からがちゃ、と、スピーカーを入れた音がした。目を凝らせば、ハンドルを握っているハボックが中で何かしているのが見えた。
「…他の人も乗ってるなら他の人がやればいいのにね…安全運転した方がいいよ…」
何かが突き抜けてしまったのか、弟が相当見当違いな事を言うので、エドワードはかなり申し訳ない気持ちになった。別にエドワードは何も悪くないのだが。
が、ハボック達にとってはそれは、与り知らないことである。
『…あー、あー。テス、テス、マイクのテスト中…』
…非常に場違いな感の拭えない、なんだか間抜けな音が聞こえてきた。スピーカーを使ってまで、彼らは一体何をする気なのだろう。
エドワードはもはや言葉もなく、ただ待ってみることにした。もう待つので精一杯だった、という面もある。
『本日は晴天なり、…繰り替えす、マイクのテスト中…』
多分ハボックは面白がっているのだろうな、とエドワードは思った。彼のそんなところは、どちらかというと好意に値したが、それでも時と場所をもう少し考えてくれたらいいのに、と今ばかりは思わずにいられなかった。
そして少年が脱力している間に、マイクの持ち主が切り替わった。
『エドワード君?聞こえて?』
いきなりのご指名に、エドワードは目を丸くする。身を乗り出せば、彼女の視線を感じた。
「中尉?!」
…彼女にこんな行動に加担する茶目っ気があったとは驚きだった。
『そこにうちから人が行っていると思うのだけど』
エドワードとアルフォンスは、揃って背後のロイを振り返った。それから視線を軍用車に戻す。窓の向こう、確かに彼女が笑ったような気がした。
『その人は今日の午後から明日一杯休暇になっているの』
この台詞に目を瞠ったのは、ロイも一緒だった。
「…中尉」
『私たちからあなたへのささやかなお礼よ。思う存分、二週間分、彼を振り回して頂戴』
最後には微笑みの気配が続いて、それで拡声器からのアナウンスは終わりを告げた。
「あっ…ブレダ少尉」
アルフォンスの声に教えられて目を向ければ、軍用者の後部座席から何とか身を乗り出して、ブレダが敬礼していた。にやりと人を食ったような笑みを浮かべていたけれど、彼のやさしさを知っていたから、うさんくさいとは思わなかった。
エドワードは返事のかわりに、失速していく車に向けて手を振った。