人魚
epilogue:"beautifull sunday"
どうしてだったか。
弟と元気よく笑いあっている姿に目を細めながら、ロイは思考を沈める。
…どうして、惹かれている気持ちに気付かないでいられたのか、今ではそれこそわからない。咄嗟に体が動くほど、守らなければという衝動に欠片も疑念を挟まぬほどに、心に深く根ざしていたのに。少年への、想いというやつは。
本当に今となっては、どうしてその気持ちに蓋をしていられたのか、そのことの方が不思議でならなかった。
「……、おや」
ふと、木に寄りかかってそちらを見ている自分に気付いたらしく、兄弟が揃ってこちらを振り向いた。そして生意気だけれど屈託のない笑顔を浮かべて、早くこっちに来い、と言っている。
「ああ、今行くよ」
―――結局あの後、つまりロイがエドワードを追いかけて汽車に乗り込んだ後だが、彼らは三駅ほど行って下車した。といっても、特急の三駅なので、イーストシティからは結構遠ざかっていた。そこは、日曜のうちにイーストへ帰るためには、夕方までいられないくらいの遠さに在る小さな街であった。
牧歌的な雰囲気はどうやら兄弟にとって懐かしいものらしく、一瞬複雑な顔をしていたものの、すぐに馴染んでしまっていた。
街にひとつしかない宿屋に泊まり、今は朝食前の朝の散歩中だ。
なんとも健康的な話である。
「早く来いよ大佐ー」
待ちきれないというように口を尖らせるエドワードの横では、アルフォンスが「こっちこっち」と手招いている。姿に見合わぬ幼い仕種に一瞬胸を衝かれたものの、その明るさに救いのようなものを覚える。
「何があるんだ?」
「ざりがにいるんだぜ!」
エドワードは小川のへりにしゃがみこんで、わくわくとした顔で答える。アルフォンスはその背後で腰を屈めて、兄と同じ場所を覗き込んでいる。
「ざりがに?」
「そう。大佐はあれだろ、こんなの捕まえたこととかないだろ」
なぜか誇らしげに、少年はえへんと胸を張りそう言った。その様子を微笑ましいと感じながら、ロイもまた軽く腰を屈めて首を捻る。
「この手のやつは、揚げるとなかなかいけるんだ」
「…………」
「ちょっと泥臭いがな。後は瓶に詰めて殻ごと潰して…」
「――――――!」
がば、とエドワードは顔を上げた。目と口をいっぱいに見開いて、信じられないものを見る目でロイを凝視している。
半ばその理由に見当をつけながらも、ロイはそ知らぬ振りで首を傾げた。
「どうかしたか?」
「あんた、ざりがに、ざりがにを…」
「ああ、結構栄養価が高いらしいよ。少なくとも蠍よりはいいかなあ、毒がない分…」
ふむ、と顎を擦りながら脅かすように続ければ、少年はやにわに立ち上がり、ひっしと弟に抱きついた。
「アル…!ひどい大人がいる!」
おやおや、困ったな、と、いささかも困っていない調子でひとりごちつつ、ロイはアルフォンスを見上げた。そうして促せば、渋々といった様子で鎧の少年が口を開く。いや、口は開いていないか…。まあ気分の問題だ。
「…。…ボクら、うんと小さい頃」
「小さい言うな!」
「じゃあなんて言うの。身長が百センチなかったかもしれない頃とか言えばいいの?」
「……………何年前、とか幾つの頃、とかあるだろ」
「ああ、まあそうだね。ええ、で、まあとにかくボクらがあんまり大きくない頃…」
エドワードは物凄く何か言いたそうな顔で弟を見上げたが、あっさり無視された。
「ザリガニ飼ってたんですよ」
「ああ…」
そういえば私も子供の頃は飼っていたかもしれないな、とロイは相槌を打つ。
「でも、それがある日、…近所のおじさんに食べられてしまって…」
「オレのレッドドラゴンとクリムゾンタイガー…」
ぼそり、とエドワードはアルフォンスにしがみついたまま悔しげに口走った。
アルフォンスとロイは、なんとも言い難い微妙な表情でそんな少年を一瞥した。だがすぐに、申し合わせたようにお互いに視線を戻す。
「…強そうな名前というか…昔から赤が好きだったのか」
「それもあるんだろうけど…単に赤いからじゃないですか?」
「……………」
「……。言いたい事は何となくわかります。でもまあとにかく、そういう幼児体験がありまして、どうもそれが強烈なトラウマみたいで…ボクら好き嫌いってないだけど、兄さんはどうにも甲殻類というか海老の類はそれでちょっと駄目みたいで…」
はぁ、なるほど、とロイは何度か頷いた。
「―――鋼の」
普段よりやさしげな声に誘われ、エドワードはまだ疑いに満ちた目でロイをちらりと見た。そんな、人に慣れていない動物のような反応を見せる少年に、さらに笑みを深くして男は言う。折った膝の上、頬杖をつきながら。…いくらか、面白がるような調子で。
「その点、私は食べられたりしないし、先にも死なないと思うから、安心したまえ」
「……………………はっ?」
にこにことたくらみ顔で言われて、エドワードは固まった。が、その頭上では暢気な声が揶揄するのだ。
「わぁ。大佐、熱烈ですね」
「それは今更じゃないのかね?」
アルフォンスの軽い言葉に、ロイもまたさらりと返す。
「………………………お…」
ぱくぱくと口を動かすエドワードを、弟が小首を傾げて覗き込む。
「どうしたの?『お』?おなか減ったの?宿に戻る?」
「ああ、そうだな。今朝は割と早起きしたしな…」
ロイも神妙な顔を作って何度か頷く。
ぷるぷると小刻みにエドワードが震え始めた。
―――おかしいだろ。なんでこんなナチュラルに溶け込んでんだ。こいつら。
エドワードは目を白黒させながら唇をわななかせる。
思考を、そして、昨日の汽車の中まで遡らせてもう一度考えてみた―――。
…行き先について話し合いながら、ロイはわぁわぁわめくエドワードに構わず、自分がわかる範囲でアルフォンスに事情を説明した。というか、むしろ、あれに近かった。
お嬢さんを僕に下さい、とかいうあれだ…もっとも、エドワードは実際にそういうのを知っているわけではなかったけれど。
そしてロイから説明を受けたアルフォンスはといえば、わぁわぁわめくエドワードにぴしゃりと「うるさいよ兄さん。黙って」と言いつけ、至極淡々と状況の理解に努めた。
当事者のはずなのに、エドワードはどうにも蚊帳の外で…、そして、なぜか、両者はわかりあってしまったらしい…。
らしいというのも変な話だが、エドワードにはそうとしか言えなかった。
まあ事実は事実だった。ロイと、その、そういった関係をもってしまったことは、今更どうしようもない事実だった。だが思い出すとは思わなかった。まさか、それを、よりにもよってアルフォンスにまで…。
いや、全部を語られたわけではない。さすがに。だが…。
「―――というわけで、私は鋼のに…君のお兄さんに惚れてしまったわけだ」
もう少し言いようはないのか、というくらい捻りなく、ロイはアルフォンスを真っ直ぐ見つめながら言った。
「色々障害はある。同性だし、お互い立場も微妙だな。…だが、私はそれを誰かに知られても、別段困ることはないと思うくらいには、真剣だ。その点に関しては信じて欲しい。今更好奇心だけで火遊び出来る年でも立場でもないわけだしな」