人魚
*supplement/intermisson(8th day):a date
「デートしないか」
陽気に誘われ言ってみたら、それこそこぼれ落ちるんじゃないかというくらいに目を見開かれた。…ちょっと酷いんじゃないのか、その反応は。
エドワードは手に持っていた薬缶を覚束なげな手つきで置いて、恐る恐るこちらに近寄ってきた。と、思ったら、掌をこちらの目の前でひらひらと振り出した。
「…別に頭はおかしくなっていない」
ロイのむっとしたような声に、少年ははっとして手を引っ込めた。しかし、やはり訝しげな顔。
「……。いや。やっぱり、あんた、おかしい」
どうしよう、遂に記憶だけじゃなくて他の部分も悪くなったのかな?
エドワードは真剣に悩んでいるようだったが、独り言にしても大分失礼だった。
「…傷つくぞ。私でも」
「じゃあ熱でもあるのか?」
「至って平常だ」
「…………」
少年は、今度は何か恐ろしいものでも見るような目を向けてくる。
「…デートって。あの、デートか」
「あのもなにも、そんなに種類があるのか。私の認識ではそうでもないんだが」
エドワードは難しそうな顔で考えこんでしまった。
しかし顔を上げると、薄気味悪そうな顔で確認してくる。
「…あんたと、オレが?」
「他に誰かいるのか」
「……。あんた…だってデートってあれだろ。…手とか繋いじゃって。映画とか見ちゃって。ソフトクリームとか食っちゃう、アレだろ?」
「―――……」
「湖とかでボートなんか漕いじゃって?鳩に餌とかやっちゃうのか?」
ロイはまじまじとエドワードの顔を見つめていた。
そして。やがて。
「…っ」
とうとう耐え切れず、噴き出した。そこで初めて、頭をぐるぐるさせていたエドワードも顔を上げる。
「………ロイ?」
「…まあ君がどうしてもそういうことがしたいなら、付き合う覚悟もないではないが…ちょっとその辺を散歩しないかと誘ったつもりだったんだよ」
苦笑を浮かべてそう言えば、またも彼は驚いた顔をして。
―――それから、己の早合点を恥じるように頬を染めた。その反応は初々しくて、ロイも気を良くする。そして気を良くしたまま、躊躇いなく手を伸ばし、少年の頬に掛かる金髪を払って唇を寄せた。
「どうかな。受けてくれないかな。誘い」
お伺いのついでのように唇で触れれば、赤い頬がますます赤くなる。可愛いやらおかしいやらでつい笑ってしまえば、とうとう殴られる羽目になった。
勿論、ちっとも痛くなどなかったが。
戸締りをする背中はまだ少し怒っているようだった。
―――照れ隠しだとわかってはいるが。
「……んだよ」
少年が鍵を締めるのをぼんやり待っていたロイだが、当のエドワードが隣に並ぶと、なぜか黙って手を差し出した。それを胡乱げに見ていた少年は、つっけんどんに説明を求めた。
と。
「手を繋ぐんだろう」
不思議そうに首を傾げながら、厚顔無恥なことこの上ないことに、図体のでかい(エドワードに比べると世の中の大体の人が図体がでかい範疇に区分される気がするが)男がそう口にした。
「なっ…ばっ…」
「繋がないのか」
「つ…繋ぐわけねーだろ!バカ!」
エドワードは怒鳴りつけると、背伸びしてロイの頭をぽかりと叩いた。
「痛いよ」
「うるせぇ。おらっ、とっとと行くぞ」
「…情緒がない」
「なんか言ったか」
「…イイエ。何も」
ふんっ、とエドワードは肩をそらした。そうしてずんずん歩き出す。
「…イニシアチブを取られてしまった」
そんな威勢の良い背中に、ぽつりとロイは呟いた。
それにしても良い天気だった。
午後は誰も来ないとブレダが言っていたので、二人はのんびりと歩いた。最初こそ怒っていたエドワードも、パンの焼ける香ばしい匂いがしてきた頃にはすっかりそんなことは忘れているようだった。
「うまそーな匂い」
くんくんと鼻の頭を動かすのがおかしくて、ロイは気付かれないように口元を抑えた。笑っているのがばれたらまた怒られるかもしれない。それよりは、もっと違う言葉をかけた方がいい。
「行ってみないか」
「え?あ、うん」
両のポケットに手を突っ込んで、いかにもリラックスした雰囲気のロイが尋ねれば、一瞬驚いたような顔をしたものの、少年は顔をすぐに顔を綻ばせた。
「こっちから匂いするよな」
そして、率先して早足で歩き始める。
「おい、転ぶぞ」
待ちきれない様子で先を行くエドワードに、苦笑混じり、ロイは呼びかけた。
「転ぶわけねーだろ。てか、遅い!早く来いよな!売り切れちゃったらどうすんだよ?」
が、元気良く反論された。これにはハイハイと頷いて、ロイもいくらか歩速を速める。元から歩幅が違うから、早く歩こうと思いさえすれば、ロイの方がずっと早いのだ。
ただ、そんなことをすれば少年の自尊心を傷つけることになるかと思ってやらないだけで。彼のコンプレックスについては、共同生活を始めるに当たって例の女性から与えられた助言の中にしっかり含まれていたのである。
「あ、ここだ」
と、程なくしてこぢんまりした小さなパン屋が現れた。煉瓦塀と赤い屋根の、まるで童話にでも出てきそうな風体の小さな店。窓からは確かにパンが並んでいるのが見える。木の看板にも、パン屋であることを示す文字が。エドワードはロイが来るのを待たず、さっさとドアを開け―――入ろうとして、一度立ち止まるとロイをじっとりと見た。
「…なんだ?」
どこか恨みがましい目つきに、ロイは首をひねる。すると。
「…この前みたいにマダムだなんだ言ってご機嫌取るの禁止な」
「……は?」
「いいから!禁止!わかったか!」
「ああ…」
ロイはパチパチと瞬きを繰り返したが、二日前の青果店でのやりとりを指摘されているのだと思い至り、了解した、と重々しく答える。
内心は、やきもちかな、とのんきなことを考えていたが。
「言っとくけどやきもちとかじゃないから」
と、まるでその心を読んだかのように、エドワードがさらに釘をさしてきた。
「目立つからあれ。わかったか」
「…目立つのか」
「目立つよ。どこの世界に野菜売ってるおばちゃんにマダムとか呼びかけるヤツがいるんだよ?」
「だが、…礼儀ではないのか」
「そんな礼儀は今すぐ川に捨てて来い。…第一あんたのそれは、マナーじゃなくてただの…」
勢いに任せて最後まで言おうとしたエドワードだったが、不意にそこで口をつぐんだ。
「エド?」
「うるせ。なんでもねぇ。…チョコパンあるかなっ」
うっすら染まった目許を見れば、何か彼にとっては都合のよくないことだったのだろう。少年は言葉の行方をごまかして、今度こそ店内へ入って行く。カウベルの高い音が可愛らしく来店を歓迎していた。
「エド」
そんな彼の背中を追って、ロイも店内へ入る。昼を少し過ぎたくらいの時間帯だからなのか、店内には他に女の子と男の子が一組いただけだった。よく似た面差しから、ふたりは姉弟なのだと知れた。
「私のはマナーじゃなくてなん―――」
「おにいちゃんたち、おきゃくさん?」
追いすがって尋ねるロイの声を、女の子が掻き消した。
「おきゃくさん?」
男の子も、一所懸命に口を動かして首を傾げる。
「え?う、うん」